私は知らないふりをする

 安易な同情はその人のプライドを傷つける。そもそも私はその人のことをそれほど大事だと思っていないから、その人が不幸になったって何とも思わない。
 私がどれだけ不幸でも、その人が傷つかないのと同じことだ。私たちは対等だからこそ、互いに知らないふりをすることができる。

 人はそれぞれ別の痛みを抱えている。それを理解し合うことは、努力すればできることだと私は思っている。
 でもその先にあるのは、どうしようもないという絶望感だけだ。慰め合うことすらままならないのが、実情だ。
 知ることや、理解することが、傷を癒すなどというのは、幻想だ。

 経済的に厳しくて、目の前の選択肢が限られている人。交友関係がどうやっても広がらない人。
 私はそういう人たちの生き方や愚痴から目を逸らす。そういう人たちのために何かできる力が、私にはないからだ。たとえあったとしても、私はその力を別のもののために使うと思う。

 私はこの時代の人を助けることよりも、私自身を助けることを優先する。もっといえば、もし私が私のことを全て解決したならば、この時代の人よりも、この先の時代の人の方を優先すると思う。
 大人よりも、子供を優先する。現在進行形で難しいことに直面して悩み続けている人を見捨てて、まだ平気ではあるが、この先の危険によって破滅してしまう恐れのある人の手助けをする。

 全員を助けるだとか、大切にするだとか、そんな言葉は全部綺麗ごとで、重要なのは取捨選択。しっかり考えたうえで、自分の言うべきことを言い、やるべきことをやるだけだ。
 それが人生であり、私はそう割り切っている。

 私の前に嘆く人やぼやく人がいたら、私は知らないふりをしよう。それができないときは、泰然としていよう。同情するよりはずっといい。手を差し伸べない同情は、人をさらに惨めにする。

 見なかったことにするのはしゃくだし、忘れてしまったことにもできない。私はなんだかんだ人の痴態をずっと覚えている。
 なかったことにはできない。だからできるのは「ふり」だけ。

 でもそういう「ふり」が大事なのだ。

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