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夫が在ったということ グリーフの時

 夫が4月に突然亡くなって、早8か月が経とうとしています。

 その後、娘が難病にかかるなど、怒涛のような一年の中、最近やっと「感じたこと」を「考えられる」ようになってきた気がします。今までは、こなすのが精いっぱいで、脳が処理してる感じでした、デジタルみたいに。

 うちの場合、経済的には私が支えている状態だったので、生活の流れそのものは大きく変わっていないのですが、彼が生活の何を担っていたのかに関わらず、そこに存在していたということが私には意味があったのだと実感をもって理解しています。

 亡くなってから、彼が通っていたデイケアで果たしていた役割があったことを知ったり、友人たちからの彼への思いを聞いたりしたことで、見方が変わったということもあります。一緒に居ても見えないことだらけだったのだという反省もある。でも、それ以上にやはり役割に関わらず、存在が私の人生の一部となっていて、それが消えたような、でも記憶の中にあるから、まだいるようなそんな感覚が現在の状況という感じです。

 大切な人を亡くした方へ・・・とかいうサイトがあっても、なんか仲良しの伴侶を亡くした人ばかりが集まるイメージで対象じゃない感じがして近寄れなかったのですが、愛情も、怒りも、笑いも、恨みも含めて、感情を交わす相手はやっぱり大切な存在だったのだと、まあ、当たり前のことをいまさら受け入れているところです。

 福祉の勉強をしても、やはり人間の存在を生産性で考えてしまう自分がいて、夫にもそんなまなざしを向け、怒りを抱いていたことなど、改めて自覚して、それでいいのか?と自問しています。そんな宿題を与えるために、早く逝ってしまったに違いない、焼かれて上っていった時と同じような青空を見ると、そんな気分になります。


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