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菅首相の会食は決定的失敗である

このnoteは菅首相が先日行った会食がなぜ決定的な失敗だったのか、私見を述べるものである。

会食の概要について

菅首相が今月14日、銀座のステーキ店で自民党の二階幹事長や王貞治氏ら7名と会食をしていたことが発覚した。コロナの感染が拡大する中、政府や分科会は"少人数での会食"や”マスク会食”をお願いしていたのだが、国のトップがこれを破っていたのである。

日本を亡国にしかねない軽率な行動だった

菅首相の会食問題の概要を説明したところで本題に移る。だが、その前にやや遠回りをする。

今回コロナで我々の生活・生存が脅かされるようになった。このコロナに対して国民そして政府に突きつけられたのは以下のテーマだった。すなわち、「経済を取るか、安全を取るか」である。言い換えると、「経済活動を維持させるか、人々の生命をとるか」ということになろう。

人々の生命を取った場合の代表的政策は”都市封鎖(ロックダウン)”だ。
最初にこれを行ったのは中国だった。成果はどうだったか。中国国家衛生健康委員会によると、中国本土の新型コロナウイルス感染症の新規感染者は12月17~19日に52人が確認されたそうである。一方の日本は、東京だけみても、12月21日15時時点で392人だ。”人々の生命を取る”という目的は達成されていると言ってもいいのではないだろうか。
(もっとも、中国のデータは発表できない、大本営発表のようなものだ、という批判はあるし、それについて私も強く否定はできないと思っている。)

経済活動を取った場合の代表的政策は”集団免疫の獲得”だ。
話題となったのはスウェーデンだろう。さて、その国の結果はどうだったのか、ウォールストリートジャーナルの記事を紹介しよう。


スウェーデンの公衆衛生当局は、国民を徐々にウイルスにさらすことで人口全体が病原体への抵抗力を獲得できるようにする「集団免疫」作戦に楽観的だった
スウェーデンの死亡率は隣国よりも依然として高いままであり、テグネル氏は11月下旬に感染の再拡大は同国で集団免疫獲得の「兆しが見えない」ことを示していると認めた。
 一方、スウェーデンの放任主義的なコロナ戦略は、提唱者が予測したほどの経済的メリットをもたらさなかった。中央銀行と複数の経済機関によると、スウェーデンの上半期の国内総生産(GDP)は8.5%減少しており、失業率は2021年初めに10%近くに上昇する見通しだ。

集団免疫は”経済を取る”という目的を達成できたとは言いがたいだろう。

「生命重視と経済重視」はトレードオフの関係か?

以上述べたように、コロナ対策は「生命重視か(都市封鎖)か経済重視か(集団免疫か)」という2軸があることが分かるであろう。もちろん、この中間にあたる政策・施策は沢山ある。コロナ対策をしながら、経済活動を回していこう、という目的の施策の例としては、日本のGoToトラベルや韓国の感染者追跡アプリ(日本も似たようなものを作っている)などだ。

ここで、日本の特徴というものを述べたい。

最も特徴的なのは、日本の感染症に関する法律(特措法など)は、法的拘束力が他国に比べて弱い、ということではないだろうか。
緊急事態宣言を出しても、”自粛の要請”くらいしかできない。イギリスのように都市封鎖をするなど、まず不可能だろう。
これは日本国憲法が日本人の自由・権利を限りなく尊重している、ということの裏返しであろう。
もちろん、海外の憲法なども、個人の権利や自由は限りなく尊重・保障している。だから、都市封鎖はあくまで最終手段だったしトランプは都市封鎖に対して否定的だった。個人の自由を尊重・保障しようとするが故に。(トランプは個人の自由というより経済を回したかったという魂胆も十分にあるだろうが)

しかし、日本と海外の「個人の権利(自由)の尊重」は新規感染者数という結果で異なる結果を生み出した。

フランスなどの欧米人は「個人の権利の侵害は許されない」とし、パブで酒を飲んだり、アメリカ人はコロナパーティーなどを行っていたりした。

海外の首脳陣は悩んだであろう。「自由つまり個人の権利を取れば感染者が増える。しかし、感染対策を重視しようとすれば個人の権利を一時制限せざるを得なくなる」と。

日本の首脳陣も同じだったと思う。”自由か感染対策か”、だ。日本は強権的政策を行わず、「お願い」「自粛要請」という形で感染対策を行った。海外同様、「個人の権利(自由)の尊重」を行ったのだ。しかし、日本の新規感染者数は他国と比べて低い数値だった。コロナパーティーなんてことはもってのほかで、マスク警察という現象さえ引き起こした。個人の権利を尊重しても感染者数は爆発的に増えていなかったのだ。海外では相反するとされていた「自由か感染対策か」が日本では両立できていたのだ!私はそう見ている。

”リバティ”か”フリーダム”か

なぜこのような結果になったのか。私は”自由観”に違いがあるのではないか、と思う。

先日読んだ宇沢弘文の『経済学は人びとを幸福にできるか』という本で印象に残った一節を紹介しよう。

(ジョン・スチュアート・ミルはOn Libertyの冒頭で、)ここに言うリバティーはフリーダムではない、無制限の自由ではない。他の人びとの自由を侵さない限りにおいて自由ではある、と、いわば社会的自由なのだということが強調されていたのが、今でも鮮明に記憶に残っています。

なるほど、である。
リバティーとフリーダムは日本語訳だと同じ「自由」だ。でも内容が異なる。

リバティー:社会的自由、他の人々の自由を侵さない限りにおいてある自由
フリーダム:無制限の自由

コロナパーティーをするアメリカ人は自由を享受していただろう。だが、それは”フリーダム”の自由だ。無制限の自由はいわゆるワガママだ。おもちゃを買ってもらえなくて泣きわめく子供たちもフリーダムの意味で自由だ。

日本人は、個人の権利を尊重されたものの、節度ある行動を心がけていた。いわば、フリーダムの自由ではなく、リバティーの自由を行使していたのではないだろうか。

リバティーの自由はややもすると息苦しい。なぜなら、”他の人びとの自由を侵さない”自由だからだ。好き勝手するという意味の自由ではない。でも、リバティーの自由の方がむしろ重要なのではないだろうか。世界は私を中心に回ってないし、他の無数の人達との協力があってこそ、この社会は存在できるのである。もし人々がフリーダムの自由を謳歌し始めたら、”万人の万人による闘争状態”になりかねないだろう。

なぜ日本人はリバティー的自由になるのか。いろいろ要因はあるだろうが、一つは”ムラ社会”だったことにあると思う。時をさかのぼって農耕民族時代。日本は国土が狭いため、生存していくためには共同体(ムラ)での”協調性”や”協力的行動”というものが必要だっただろうと思う。それを何万年も繰り返していれば、協調性がある種が自然淘汰されて残るようになって、必然的に共同体つまり他者との関係性に敏感な民族になったのではないだろうか。

他にも要因はあるだろう。徳川の封建体制など考えるとキリがないし、私も専門家なのでこれ以上は詮索しない。

しかし、日本人が協調性の高い民族だということは間違いないのではないだろうか。協調性があるから、つまり他者との関係を上手く感じ取れるからこそ、他の人々の自由を侵さない限りにおいてある自由=リバティー的自由を獲得できたのではないか。

他者との関係性に敏感だからこそ、芸能人は”世間”に申し訳ない、と言う。世間は他者の集合体だ。昔はよく”世間に顔が立たない”などとも言った。世間は日本人の特徴をよく表すものだ(詳しくは、『「空気」と「世間」』, 講談社現代新書,鴻上尚史を参照されたい)。

ただし、これが悪い方向に働くことは十分あることも注意されたい。戦時中の5人組や兵役拒否に対する非国民呼ばわり。村八分。他者は他者でもマジョリティ(多数派)の他者との関係を上手く感じ取り、過剰に反応してしまった結果、マイノリティ(少数派)に厳しく当たってしまうこともあるのだ。

話が脱線した。つまり何が言いたいかというと、日本人は”社会的自由(リバティー的自由)”を獲得できているのではないか。それは何万年前から生存するために生活したムラ社会から生まれた”協調性の高さ”に求められよう。ただ、多数派の他者に協調してしまうという点は注意が必要、ということだ。

第三の道

日本人は他者との関係性に敏感で配慮ができる。リバティー自由に則った行動ができた。だからこそ、「自由か感染対策か」という課題に対して、法律で個人の権利を抑制することなく感染者数を海外と比べて低く維持できていたのだ。そして第一波は過ぎ去っていった。ここまでは、少なくとも失敗ではなかったと思う。日本人のリバティー自由観が功を奏した。日本は第三の道を選べた。そう私は思っていた。

しかしそれも長く続かなかった。第一波が収まると街に人は戻り始めた。政府はGoToキャンペーンを打ち出し、経済を回し始めた。
日本は「生命重視から経済重視」に重心を置き始めた。ここから日本人の多数派の意見はいつのまにか、「多少は外出してもいいよね、前ほど自粛しなくてもいいよね」ということになっていたのではないだろうか。
テレビでも、感染者数の現象に応じてコロナの話題は下火になりつつあった。
日本人の多数派の意識がこうなってしまったら、リバティー的自由も緩んでしまったのは当然の帰結だ。

多数派の意見を変えるのは難しい

だが、第二派そして第三波が襲い始めた。一方日本人の多数派の意見は第一波が収束したときのままだった。政府もそうだった。だからGoToを止めるタイミングを遅きに失した。

さて、ここから結論に取りかかろう。

菅首相や知事などのトップ達は国民に再度”お願い”や”要請”などを始めた。国民の多数派の意見・意識を再び変えて、危機意識を高くしようとしているのだ。リバティー的自由(世論)を再び以前のようにしようとしている。

そんな時に菅首相は何をしたか。国民にしていた”お願い”を自分は堂々と反故したのだ。
それを見て我々国民はどうするだろうか。怒るという反応はもっともだ。世論調査の結果もそれを示していた。では、怒ってどうする?考えられる選択は二つ。
(1)「首相ですらあんなお願い守らないんだから、私も守らない~っと。」
(2)「首相自身は破って許せないけど、オレは言われたお願いを守るぞ!」
どっちだろうか?

(1)の反応をしても何もおかしくはない。想像してほしい。例えば上司から「仕事中にサボるな」と怒られた後で、その上司が仕事中にサボっているのを発見したらあなたはどうするだろうか?(1)の反応をするのが普通だろう。もしくは脅すかもしれない。「あなただって破っていたでしょ?お互い様ですから、私は今後ともサボりますよ。あと、あなたの言うことは今後聴きませんから」という反応をしても、珍しくはないはずだ。すくなくとも心の中では思うだろう。これと一緒なのだ。

(1)の反応をする人が多数派になってしまえば、日本のリバティー的自由はまだ緩いままになってしまう。となると、一時獲得していた日本の第三の道はまた遠のいてしまう。

このまま感染状況が悪化してしまえば、日本は今後、スウェーデンのような集団免疫を獲得する路線か、欧米や中国のように個人の権利(自由)を一時抑制する路線になるかもしれない。どちらも嫌だろう。

どちらも嫌だろう。
最も良い方法は、日本人のリバティー的自由を再び厳しくするしかない。それは日本人の多数が再び感染対策や危機意識を敏感かつ十分にすることが必要なのだ。

しかし、多数派の意見を変えることは難しい。できること、そしてそれの高価は限られている。例えば、首相が国民に頭を下げてお願いすることなどだ。そうして徐々に多数派の意見は代わって行くのだろう。

改めて述べよう。
菅首相の今回の行動は、数少ない多数派の意見を変える機会をみすみす潰してしまったのだ。それは、日本の第三の道を遠ざけかねない行動だった。だからこそ、私はこの行動が決定的失敗だと指摘したのだ。

もっとも、菅首相が今回の非を認めて謝罪したのは適切だった。
日本が第三の道を再び歩み始められるよう、私も私なりにできることをしていこうと思う。


相変わらず読みにくい文章でしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

【参考文献】
WSJ スウェーデン「コロナ集団免疫」作戦、失敗の深層
(https://jp.wsj.com/articles/SB11337479942064503444304587144303900147904)

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