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人間に関する一考察

 今回は「人間」をテーマに、私が発見した真理を皆さんにお伝えする。ずいぶんと仰々しいテーマであることは承知だが、無理をしてみたい。
 ただ私がこれから述べることは至極普通のことであり、前代未聞の真理の説明などは一切ない。だから、そのようなことを求めておられる方々はこのnoteを読み飛ばされた方が賢明である、ということを最初にお断りしておく。(なお、人間に興味がある方は『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』『銃・病原菌・鉄』などを読まれることを推奨する)

忙しいあなたに早速結論

 さて、ここから本題、いやまず結論からお伝えしよう。私が発見した真理とは、”人間は目に見えないものを適切に把握することが苦手である”ということである。

 「なぁーんだ、そんなことかよ」という声が聞こえる。そうである。たったこれだけのことをこれからややこしく説明してくのだ(もちろん分かりやすい説明をすることを心がけている)。

 ここで一つお伝えしておきたいことがある。
 齋藤考が『読書力』でも述べているように、読書のメリットの一つは、「あぁー、これ自分も思っていたんだよね」というように、自分が潜在的に考えていたことが読書でそれを改めて”はっきりと”確認できるよになること
(そういう出会いや発見ができるということ)だ。

 例えば、人間は目に見えないものを適切に把握することが苦手である”というこの文章をみて(出会って)、「あぁー、これね。明確な文章にしたり、はっきりと考えてはなかったけど、オレも似たようなことは感じてたんだよ(だからこのnote読まなくていいな)」と感じた時だ。

 だがここで考えてみて欲しい。あなたは自分の目に見えていなかったものをこの文章で”はっきりさせた・目視化した”から、価値が無い、と判断している。

 もしあなたがはっきりと”人間は目に見えないものを適切に把握することが苦手な生き物である”ということを明文化していたのなら、本当にこのnoteを読むのは無駄だ。
 だがこのnoteを読んで「おまえが今説明しているその真理ってやつは、オレは明文化したことはないけど、心の中でうすうす感じてたよ」と思った人は、”人間は目に見えないものを適切に把握することが苦手である”という真理が当てはまっている。

 なぜか。”人間は目に見えないものを適切に把握することが苦手な生き物である”という、こんな至極普通のことを明文化、つまりはっきりと目に見えるものに出来ていない、目に見えるようにして把握するようにできていない時点で、あなたは早速この真理を証明してしまっているのである。

  早速ぐだぐだな説明を披露してしまった。稚拙な説明でもあるだろうが、最後まで読んで、また最初から読んでもらえると、より言いたいことが伝わるのではないか、と期待している。とにかく、読むに耐えられる、という方は最後までお付き合い願いたい。

人間は目に見えないものを適切に把握できない

 この真理は常に当てはまっている、と私は考えている。いくつか例を考えてみよう。

 まず私たちは”幽霊”というものを適切に把握できない。なぜか。簡単だ。”目に見えない”からだ。
 たしかに感じることはある。夜中に山道のトンネルをくぐるときなどまさにそうだ。見える人(霊感がある人)もいる。学年に一人はそういう同級生がいるものだ。しかし、適切に把握できないだろう。男の幽霊か女の幽霊か?歳はいくつか?背格好は?日本人か?はっきりと適切に把握できない。

 一方、僕が昨日見かけたインド料理屋のバイトは、少なくとも幽霊よりは適切に把握できる。簡単だ。”目に見える”からだ。
 性別は男。歳は25。中肉中背。インド人じゃなくてネパール人だったよ。こんな具合に。でも、彼を私に紹介してよ、といわれたらとたんに困ってしまう。だって、ネパール人の彼を紹介するとき、彼の内面性(優しいのか優しくないのか。どういうときに喜び、怒り、哀しみ、楽しむのか。実はDVの癖があるのではないか、などなど)も伝える義務があるであろうが、これはもっと仲良くならなくては知ることが出来ないからだ。
 内面性や性格というものは、同じ時間を一緒に過ごし、彼の慣習や選考、どういうときにどのような行動を起こすのか、ということを目にしないと適切に把握できない代物なのだ。


 目に見えるものは適切に把握しやすく、目に見えないものは適切に把握しにくい。この真理が働いている。


 他にも例はある。例えば美味しいインド料理店を探すとき、我々はスマホで「おいしいインド料理店」などと検索する。そしてたくさんのお店の情報が出てくる。そんなとき我々はどうするか?料理や外装・内装の画像を見たり、食べログの星はいくつかということを見たり、どんなレビューがされているのかを見る。とにかく見ている。
 だって、見たら見た分、美味しいインド料理店を発見しやすくなるからだ。
 店の前にいって嗅覚で判断したり、店のドアを触ったその触覚でおいしいかどうか判断したりする人は少数派だろう(もっとも、聴覚、つまり信頼できる人からの情報=口コミはあるだろうが)

 銀行に行って「1000万円貸してください!絶対に3ヶ月で返します!」と私がいきなり懇願したって、半沢融資課長じゃない限り貸してくれないだろう。でも、トヨタ自動車の社長が「2年後からEV自動車の開発を本格的に進めようと思いますから、1000万円融資していただけないでしょうか」と言えば、大和田常務だって貸してくれそうだ。理由は簡単で、トヨタ自動車はすでに知られている、つまり目に見えているし把握されているからだ。財務諸表という目に見えるものも利用される。財務諸表は企業の財務状態や返済能力などの情報を”目に見える”ようにして提供している。

 財務諸表という企業の情報を目に見えるようにしているものがなかったら銀行家はどうしていたのだろう。経営者の人柄という目に見えにくいものだけで融資の判断をしていのだろうか?

 法律もそうだ。明文化している。もし法律が明文化されておらず、一切が口伝だったら・・・。政府や時の権力者の思うがままに出来ていただろう。恐ろしい。

 目に見えないものは適切に把握しにくい。いまだに陰謀論がなくならないのもこれが原因だ。ひょっとしたらトランプが再選しているんじゃないか・・・、なんて考えちゃう。だって投票枚総数を全て我が目で確認していないから、適切に把握しにくのだ。(もしアメリカ人全員が全ての投票券をしっかりと我が目で確認すれば、この論争にはっきりと決着がつくであろうが、そんなことやっている間に次の大統領選の年になっているだろう)

 先生の話をきかない小学生に、「ちゃんと勉強しないと大人になって苦労しますよ」なんていっても平気でザビエルの落書きに授業そっちのけで励むのもそうだ。「勉強してなくて大人になって苦労している自分」なんて目に見えないもん。(アメリカは良少年達を死刑囚と会わせて「オレみたいなりたくなかったら、勉強しろ!」みたいな会話をしたりするらしいが、これは合理的のようにみえてくる)

  日焼け止めを塗っていないと、後で皮膚がんになるよ、なんて注意されても塗らない人は多数いる。私もその一人だ。だって「日焼け止めを塗らなかったが故に皮膚がんになってしまった未来の私」なんて見えない。でも、日焼け止めを買うことによって失った300円は把握できる。”目に見えない”皮膚がんになった未来の私より、”目に見える”300円の喪失の回避を選んでいるのだ。

 本屋にいくと、本屋大賞や○○氏絶賛などの帯やPOPをよく見かけるだろう。この本が良いということを目にみえるようにさせているのだ。例えばタイトルだけで表紙は真っ白で帯もなければ目に見えるものがないから、その本を買ってもらえる可能性が少なくなる。
 本関連でいうと、グラビアの袋とじも袋をあけるまで”目に見えない”からあれやこれやと想像してしまう。適切に把握できていない状態だ。そして袋を開けると、「こんなものかよ」なんて思う。袋をあけて、”目に見える”状態になったからこそ、適切な把握(感想)ができるようになったのだ。

 amazonはこれを応用した。レビュー機能を付けたのだ。購入者の感想という”目に見える”情報を加えることで、レビュー機能を載せていなかった他の通販サイトを出し抜いたのだ。もちろん他にもamazonが成功した理由はあることはいうまでもないが。

最後に、SFのような、でも現実にすでに起こっている話をしよう。

 企業は財務諸表やIRなどさまざまな情報を提供している。それは、法律が定めているからでもあるが、投資家は目に見える情報が多ければ多いほど投資の判断がしやすいからでもある。つまり、投資家などに提供する情報が多いほど、投資という企業にとっての利益が得やすくなる。

 一方、個人の信用というもは数値化できず、目に見えないのが普通だ。長く付き合ったり、その人のことを調べることで徐々に分かってくる。
 だから、見ず知らずの人に急に「金貸してくれよ!3万でいいから!」なんていわれると困ってしまう。その人の信用(この場合返済力)が”目に見えない”からだ。

 個人の信用は見えない。これは日本では普通だが、中国では普通ではない。「芝村信用(ジーマしんよう)」というアプリを使えば、個人の信用というものが数値化されて示されるのだ!

 個人の学歴や資産、返済能力等々から各個人のスコアが表示される。一般に中国ではスコアが550~599点は平均的で600点以上になると一定以上の信用を得ていると評価されているようである。800点以上の人は非常に少ないそうだ。

 だからもし中国人Aが見ず知らずの中国人Bに「金貸してくれよ!300元でいいから!」といいつつ芝村信用のアプリを開いてスコアが800点、ということを示せばお金を貸してもらえる可能性があるのだ(もっとも、利息はふんだんにとられそうだが)。

”人間は目に見えないものを適切に把握することが苦手である”
もし日本でも個人の信用という目に見えないものが見えるようなるテクノロジーが導入されたらどうなるだろうか。日本人は抗うか。それとも、そんな便利なもの導入しよう!となるだろうか。

古代人は摩訶不思議な現象を神の仕業とした。神殿をつくり、神の怒りを静める儀式などを発明してきた。少しでも目に見えないものを目に見えるようにしたのだ。

 近代の科学革命は神を殺した。進化論はキリスト教を真っ向から否定するものだった。だが、進化論の方がよっぽど目で見て確認できる代物だ。その他あらゆる現象も科学で説明できるようになった。これは理系だけのもではない。文系のものも含む。

 つまり、人間はその歴史で、摩訶不思議でなんとか「神」の仕業だとしていたもの(雷、干ばつ、皆既日食などなど)を「科学」というより目に見える形のものに置き換えてきたのだ。

 改めて問おう。中国は個人の信用という目に見えない形のものを「科学」で目に見えるようにしつつあるのだ。これは異常な現象なのだろうか?それとも時代を先取りしすぎているだけなのだろうか?

 私は、”人間は目に見えないものを適切に把握することが苦手である”ことは”欠点”だとは思っていない。むしろ、人間らしくていいのではないかと思う。

 だが人類の歴史は目に見えないものを適切には把握することが苦手である故に、目に見える形に努力してきた(知的興味や好奇心というものも存分に働いたのだろう)。中国はこの真理に則ってさらに進んでいる。

 長くなったついでに当たり前のことを述べておこう。10年後、100年後、日本が個人の信用を数値化するという、目に見えないものを目に見えるようにするテクノロジーを利用しているかは分からない。だが、予測出来なくて当然なのだ。なぜなら、10年後、100年後は、今の私たちには”目に見えない”から。


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