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お坊さんって、恋愛禁止なのか?

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納得する部分もあるが、とうてい受け入れられない部分もあった。それが宗教なのだろう。

著者は、本の表紙を見てわかるとおり お坊さんだ
テレビなどで活躍しているし、本もたくさん出しているのでご存知の方もいると思う
本書は「慢」。つまり、煩悩が私たちを支配しているということを伝えたかったのだと思う。

恋愛について語っている

誰かを好きになると、その人に「愛されたい」「受け入れられたい」と思う
だから、気にいられるように努力する
私なら、モテ本などを買ったり、雑誌の特集を読んだりして、女子好みの髪型にしたり、服装も気を使い・・・、相手の話しをよく聞き、電話やラインには1分以内に反応し・・・色々頑張るのである
そういう頑張りは、彼女に受け入れて貰いたいため、自分を承認して貰うための偽者の自分であると著者は言う。女の子が化粧をしたり、ぶりっこしたり、整形したりするのも、そうなのだそうだ

私たちは建前を綺麗に磨けば磨くほどに、他人様の目はその美しい建前のみに釘付けになり「ありのままの自分を無視されている」と苦しむ羽目になる


そんな風にして、付き合いだした二人、場合によっては同棲したり結婚したりするわけである
が…、そのうちに偽りの自分ではなく、本当の素の自分を受け入れて貰いたいと思うようになる
例えば、僕なら電話やラインを平日の午後7から10時まではスルーする(読書タイムだか)とか
同棲しても、それはやるし。普段はオシャレなのに家ではダサいジャージだし
恋人がケーキを買って来て、これから一緒に映画を見ようと誘われても「本を読むから」と無視したりする。それが本来の私だからである。
当然、愛し合っているのだから、素の自分を彼女は愛すべきであるという承認欲求から、これは来るものであり、彼女の方も自分を受け入れて欲しい。映画を見たいと誘ったら一緒に見て欲しい。オシャレしたら褒めて欲しい。愚痴を聞いて欲しい。ケーキタイムを一緒に取って欲しい。もっと自分を見て欲しい。もっと、もっとと欲求してくる。
それで感情が不満から爆発し喧嘩になり泣かれるわけである

このありのままの自分を受け入れられたいという煩悩・・・、すなわち、自分はこの人に受け入れられているのだから存在価値がある。・・・特別な存在なのだ・・・、というように脳内で思い込みたいという煩悩です
「 本当 の 自分」 という もの は 何かと 申せ ば、「 剥き出し の 欲望」 です。 あるいは 欲望 が 満たさ れ なかっ た とき の「 剥き出し の 怒り」 です。


この負のスパイラルに対して、本書は、それは人間の業。慢。つまり、煩悩。
違う言い方をすると「承認欲求」からくるものであるというのだ
愛して欲しい。話しを聞いて欲しいは、裏返すと「自分の価値を承認して欲しい」ということだった
だから、最初は相手の気持ちを得るために努力し偽者の自分を見せるのだが
そのうちに、素の自分を承認して欲しいという感情になったり
相手を自分の所有物のように思えてきて、心や身体まで拘束したり、暴力をふるったり支配したりとエスカレートしていくが、それも自分を承認して欲しいの裏返しだった

つまり、人間の行動は、このような煩悩的な欲に支配されていて、その欲の地獄の中でもだえ苦しんでいるとか仏教の人は思っているようである
仏教は、そんな苦痛から私たちを救済する手段だというのだ

この苦痛というものを、人間はよく認識できないで、「苦痛」を無意識に「快楽」に変換するシステムを内在しているとのことである
例として蚊に刺された時のことが書いてあった
蚊にさされると痒い。苦である。痒いから皮膚をかく。血が出る。皮膚がボロボロになる。肉体的には損傷を覚えているのに、気持ちいい。快楽であるという矛盾した感覚を覚える
これと同じことが色んな場面で繰り返されていて、それが苦の連鎖みたいに私たちを、知らない間に不幸にしているというのだ。本当は苦なのに認識していない

刺激 的 な 娯楽 が 大人気。 非常 に ドロドロ と し た 内容 の 映画 に 夢中 になり ドキドキ する とき、 心 には ビリビリ と 強い 刺激 の 電気 ショック が 走り、 現実 の 人間関係 や 仕事 の 不安 などで インプット さ れ て い た 刺激 を 忘れる こと が でき、 その ため「 気持ちいい」 という 幻覚 が 生じ ます。


だから、この苦痛を認識することが大切だというのだ
痒いからかく、でも、それは快楽ではなく、皮膚に新たなる刺激を与えて脳を胡麻化しているのだということの自覚をする必要があるのだ
「苦痛」を無意識に「快楽」に変換するシステムからの脱却をすすめている


現代 人 が 一番 欲 し て いる もの は、「 自分 が 他人 から 求め られる、 存在価値 ある 人間 で あり たい」 という もの です。

そもそも どうして モテ たかっ た のかを、 もう一度 考え直し て み ましょ う。 一言 で 申せ ば、 誰 かに「 自分」 を そのまま 丸ごと 受け入れ て 認め て 欲しかっ た の でしょ う。


「本当の自分をわかってほしい」という承認欲求。「誰かに愛して貰いたい」という衝動は人間が内在しているものだと思う
その衝動は「慢」という自己愛から来るのである
自分を愛して欲しいという苦しみ=刺激を、人間はまるで快楽のように錯覚してしまう。そのうちに、苦しむことがクセになり苦の連鎖の中にとらわれてしまう。もっと、もっとと相手に、世間に要求し、その欲は際限なく拡大していくのである。それは金持ちがいくら金を得ても満足しない。もっと、もっとと求める姿に似ている

「自分」 の イメージ を 比較 し 続ける 癖、 それ は もはや 現代 人 の 日常 と 化し て い ます。 「今日 は いい 一日 だっ た」「 今日 は 何 も でき なかっ た」 とは、 翻訳 する なら「 有意義 な 一日 が 過ごせ た 立派 な 自分」「 無益 な 一日 を 過ごし た 駄目 な 自分」 という セット。

現代 人 は 朝 から 晩 まで 心 の 中 で 自分 を ホメ て 舞い上がっ たり、 自分 を ケナシ て 落ち込ん だり、 を 繰り返し て いる よう に 思わ れ ます。 「仕事 が うまく いっ た 自分 って 素敵」「 うまく いか なかっ た 情けない 自分」。「 みんな から 求め られ て いる 自分 って 素敵」「 ぞんざい な 扱い を うける 可哀想 な 自分」。

この よう に し て 私 たち は、 欲 が 満たさ れる たび に ガッカリ し て、「 これ を 手 に 入れ ても 満たさ れ なかっ た」 とばかりに、 さらに 手 に 入れ にくい もの へと、 欲 を エスカレート さ せる の です。

衝撃的だったのは 自我(我)の存在を否定していることだ。それを幻想だと言っている。


自我 は 存在 し ない から、 です。 本当は 存在 し ない もの を、 存在 する かの よう に 錯覚 さ せる ため には、 絶えず ビリビリッ と 刺激 を 受け て いる 必要 が あり ます。

実際 は 自分 で 決意 し て その こと を 意識 しよ う と し て いる わけ でも なん でも なく、 勝手 な 自動的 な 心 の 流れ が その よう な 意識 を 生み出し て いる に すぎ ませ ん

「 自分 が 考え て いる」 と いう よりも、「 考え させ られ て いる」 もしくは「 思わさ れ て いる」 という のが 適切 と 申 せる かも しれ ませ ん。 考え させ られる のは、 何 によって?…… 刺激 の 電気 ショック によって。 する と、 古び た フレーズ「 我、 思う、 ゆえに 我 あり」 は 正しく なく、「 我、 思わさ れる、 ゆえに 我 あり と 錯覚 す」 と 修正 する こと が できる でしょ う。

すなわち、 しょせん 自分 の もの でも なん でも ない 思考 などに 乗っ取ら れ 命令 さ れる のを 停止 し て ゆく のが、 仏道 の 本義 です。 この 思考 は 自分 では なく、 この 思考 は 自分 の もの では なく、 この 思考 の 中 に 自分 が ある わけ でも なく、 自分 の 中 に この 思考 が ある わけ でも ない、 と。


自我などはない。
煩悩のような刺激が支配しているという自覚が、この苦の地獄からの脱出法
苦痛を苦痛だと認識することが大切なのだという

仏道 が 苦 を 滅する 道 で ある のは、 苦しみ とは ある 特定 の 限定 さ れ た 条件下 で のみ 生じる もの で ある が ため です。 その 特定 の 条件 とは 煩悩 の 衝動的 エネルギー に だまさ れ、 操ら れ て いる、 という 条件 に 限ら れ た もの に すぎ ませ ん。
原始仏教 経典『 法句経』 では、「 生き と し 生ける もの は 心 に 欺か れ て いる」 と 説か れ て いる の だ と 解釈 でき ましょ う。 その 経典 では、 直前 の 文言 に「 一切 行 苦 を 体得 する 人 は 心 が 清まる」 と 説か れ て おり ます。 苦しみ を「 快」 に 変換 さ せ ず、 ありのまま に 苦しみ として 感じる こと が かなう なら、 私 たち は 慢 の 煩悩 モード によって 苦しみ を 増やし て しまう という こと を 思い知る 羽目 になり、 思い知る こと により その よう な こと は 続け られ なく なり、 その ショック によって「 自分、 自分、 自分」という 自分 モード が 薄まり、 それ は すなわち、 みずから の 心 が 清まり、 その 分 だけ 性格 が 良く なる という こと に 帰結 し ます。 これ は、 苦 に 鞭打た れ て いる のに「 快」 と 勘違い さ せ られ 走らさ れ 続ける むなしい ゲーム から、 半歩 なりとも、 一歩 なりとも 抜け出す ため の ワクチン を 指し示し て いる の です。

「 受け入れ られ たい、 愛情 が 足り ない」 という 心 の ブラックホール こそ が、 苦しみ の 黒幕 なの です。
その 穴 の 疼き を 消滅 さ せる ため の 最大 の ワクチンは、「『 自分』 など そもそも 存在 し て い ない こと」 を 体感 する こと で あり、 苦しみ の 刺激 を 快楽 へと 勝手 に 変換 し て しまう プログラム を 停止 し て しまう こと なの です。


自我が存在しないとか、そういう話しは、もうSFにしか思えない
とうてい、こんな荒唐無稽な議論は受け入れられない
だから、何とか真理教の人が洗脳とかを思いつくのだろうな
自我が本当にないのだとしたら、人間とは何なのか?
そんな空っぽな存在なのだとしたら、洗脳しまくれるのである
教育や環境が意識を形成するとか言うけど、そもそもオリジナリティなんてないと小池さんは言うけど、すべてが過去のインプットによって形成されるのだとしたら、変てこな親に隔離されて育てられたら、変てこな学校教育を受けたら、変てこ人間になるということになる
それが自我が存在しないということだよ
オオカミに育てられた何とかの話しはあるけども、自我はそもそもないとか、そういう乱暴な考えは宗教の人の間にしか成立しないと思う
自我はある。それが人間と獣の違いだと、私は思っています
人間と機械をいっしょくたにするのは危険思想だ

とは言うものの、恋愛のメカニズムについては納得した
だから、この本は面白かったし、この人の本は違うものも読もうと思います
いがいと宗教はおもしろい

2019  12/21


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