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破壊衝動

 今日、自分の部屋の整理をしていたら一枚のA4用紙がでてきた。

 その用紙にはびっしりと文章が書かれている。悪いことばかりが起きて、悶々としていた時期に自分が書いたものである。今になって読み返せば、論理破綻が起きているところはいくつかあれど、当時のむしゃくしゃした気持ちが正確に表れていて面白かったのでここにあげる事にする。この文章を読んでくれよ!というむさ苦しい気持ちで載せる訳ではなく、むしろ当時の自分を供養する気持ちでここに載せる訳である。

 以下、その文章。

 「今年は(主にコロナ禍後)随分と酷い日々を送りそうであり、未来ある、希望のある2020は一体どこへいってしまったのかと思わなくもない。どうやら街中で行く人たちも、やり切れなさに鬱屈としているようである。現在の感覚でいえば、人々の不満の原因は「燃焼不良」ということではないだろうか。まだまだ余力があるのに、目に見えない未知なるものの襲来に、過度ともいえる恐怖心を抱き、それに対する一番の策は自宅に引きこもるときた。有り余る体力と知力も結局使い果たすことなく、腐ってしまいそうだ。食品に限らず、わりかしどのようなものでも使っておかないと腐ってしまうらしい。

日本語には「なまる」という言葉もある。「なまる」なら再生可能といったところだが、一度腐敗してしまったものは、元に戻せないであろう。腐るという状態のおそろしさが、そろそろ顕著に現れるころではないだろうか。事実、この文章を書いている私は、もうすでに腐りかけている。

 さて、いよいよ腐る、もうダメになるぞ、という極限のところまで来ると、人間というものは黙ってひたすら死を待つわけにもいかず、どうにかして底なし沼から這い上がろうとするらしい。しかし、腐りかけの状態では、出来る事が限られてくる。今、私に湧き起こってくるのは、ただ破壊衝動のみである。

おそろしい事に、私は今パンに生えるカビの気持ちがよくわかる。何故彼等は異臭を発するのだろうか。今、私はよくわかる。あれは強烈な破壊活動と、その裏に隠された純粋な自己防衛本能である。

 生命というものは、一概に行動論理を有している。それは本能と言ってもいいのかもしれない。その行動論理は実に簡単である。生命というのは環境の中で生きている。その環境が悪しきものなれば、つまり自らの生命維持を害するものであるならば、生命に残された選択肢は2つである。自己犠牲の名のもとに自ら生命の終わりを迎えさせるか、その悪しき環境を自らの手で変えるかである。破壊衝動が湧き起こるのは絶対に後者の方である。不安定な自らの存在を、安定化させる為に破壊的行動をまきちらし、自らの手をもってして最善と思われる環境を創りあげる。これが破壊衝動である。若い年代が破壊的行動をおこなうのは、この破壊衝動と現実逃避からくるものであると思われる。

 どうやら本当に心の底から破壊衝動が湧き起こっているらしい。その証拠に最近とんねるずの動画ばかり見ている。」


というものである。もう一度述べておくが、この文章は正確性を期さない。おおげさで、感情のおもむくままに書いている。しかし、そういった欠点はあるにせよ、私はこの勢いある文章が好きである。自画自賛である。そもそも文章を読むという行為は、単にその字面を追ってその論理性を確かめているものではなく、その字面から現れてくる感情を追っているものではないだろうか。私はそう信じているのだ。

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