いとしさとせつなさともうしわけなさと

 毎日投稿頑張りますと言ってから大体一週間が経ったような気がするが、はやくもその毎日投稿の目標は崩れ去り、一体あの決心はなんだったのだと思わなくもない。

書かなかったしばらくの間、noteに対するいとしさと、せつなさと、もうしわけなさが一気にわたしの心に押し寄せてきて非常に疲れてしまった。肝心の「こころづよさ」が全く湧き上がらなかったのは無理もない。精神的な「こころづよさ」は向こうから勝手にやってくるものではないのだから。自らの、絶え間ない努力で築き上げていくものなのだ。

 さて、こうしてむやみやたらに書いていると、不思議とリズムが乗ってくるもので、書きたいアイデアがふつふつと湧き上がってくる。アイデアというのは富士山の頂上にあったり、アマゾンの奥地に隠されているものではなく、自らの生活の半径5メートルに落ちているものである。それを拾えることが出来るか出来ないかにかかっているのであり、その能力は天性のものというよりも、むしろ単純に集中力の問題なのではないかと思ったりもする。

 そのアイデアの中から、ひとつ拾い上げてみることにしよう。自分の好きな本のある一節を、ここで紹介しようと思う。

「どうしたらよくなるか、それを工夫していくよりしょうがないじゃないか。よくなるとかならんというよりも、よくするほかに途がないことを認識するべきだ。」     宝島社 『白洲次郎100の言葉』より

 歴史の偉人の中で一番好きなのは誰?と聞かれたら、私は即答で白洲次郎と答える。たとえ周りが織田信長や、坂本龍馬の名を挙げたとしても。

 白洲次郎の名は、確かにあまり有名ではないかもしれない。しかし私は断言しようと思う。この先行き不透明で、混迷かつ混沌の時代に、白洲次郎の評価はかならず上がる。時代が彼を求めているからだ。もしかするとそれは誇張表現で、求めているのは私だけなのかもしれない。しかし、いずれにせよ彼の人間的魅力は衰えることはない。なぜなら現にこの時代に生きる私が、彼に魅了されているのであり、この事実はしばらく経った次の世代にもつながっていくからである。これが歴史の強みなのだ。1000年もの間、愛されてきた文化や人物は、少なくともこれから1000年後まで愛され続けるだろう。

ということで次回からは、いとしの白洲次郎シリーズである。いいね数なんてくそくらえ。周りの評価なんてくそくらえ。自分が本当に良いと思ったものを、自分の好きなものを、書き続けるのみである。

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