忙殺と忙死、どちらが僕の死因か

「ぼうさつ」と「いそがし」と読む。忙殺は言葉として存在するが忙死は多分造語である。私が思いつく言葉なんて既に誰かが思いついているだろうからこの忙死も使い古された表現だろう。それはさておき…。

忙殺は仕事などに忙しく追い込まれることを言うらしい。文字通り忙しさに殺されるのであろう。自分の生活が、自由な時間が、仕事中であればワークとして抑えていた時間が、忙しさによって殺されるのだ。

私のここ2週間も忙しかった。毎日の退社時間も遅く、身も心もクタクタになり帰宅し、速やかにご飯を食べシャワーを浴びて寝るか、寝落ちするという生活をしていた。

確実に忙しさに殺されていた。容疑者は忙しさ、被害者は私。そんな構図。
しかし、忙しさは本当に私を殺したのだろうか?
世の中には忙しくてもなぜか楽しそうにエネルギッシュに生きている人がたくさんいる。職場にも残業しまくって飲みに行って次の日会社にきている人とか普通にいるのだ。元気すぎる…。
それを考えると忙しさは必ずしも全ての人を殺しているわけでは無いのだ。では人を選んでいる?そんなわけもない。人を選んで殺せるほど忙しさは聡明ではない。

それを踏まえると、忙しさはただそこにいただけなのだ。そこに存在し佇んでいた。私はそれに触れ、勝手に死んだだけなのだ。そこには悪意も殺意も存在しない。だから大丈夫な人は触れても死なず元気に生きている。
故に忙死。誰かに殺されるのではなく、あくまで死ぬだけなのだ。

勝手に死ぬだけだとしても死にたくないわな。と思った2週間でした。忙しさよ勝手に近寄ってこないでくれ。

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