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アート或いは芸術的写真についてのメモ

この頃、芸術的な写真って何なんだろうか?と考えたりする事があります。
で、「芸術的な写真や写真の権威付けに、何を苛立っているのか?」と言う問いに対して考えた事のメモ書きです。アートとか芸術的とか言葉の使い方も、何だか難しいのですが。

● 権威に関してのメモ
人それぞれの感じ方•考え方の違いなので、写真に権威を求める人への苛立ちとかでは無く、単につまらないなと思う事が多いだけです。発表の機会や、目に触れる事も多くなり本人にとってメリットとも有るわけですので、それもまあ理解できる事ではあります。

公募展やコンペに参加したくないなと思うのは、誰が評価するのかと言う事と評価された後に本人も含め周囲がその権威付けられた評価に流される事が、見ていて嫌なのです。本人にとっては喜ばしい事なだと思うので「おめでとう」とは言うけれど、どうでも良いコトの方が大きいのです。
会員•会友推挙は、会員減少•高齢化に危機感を持つ公募展側にも財政的にも必須要件なのかと思うくらい、乱発する公募展もある様に見えます。
公募展の会員•会友になる事を目指して切磋琢磨するのも、その人の生き方なので良いのですが、それで得るものは何なのでしょうか? 会員であるでの世間からの評価、作家の仲間入りや認知、公募作品を審査する優越感などなど…
作家への総合的評価も当然ありますが、評価すべきは作品だと思うので
無条件で会員、会友の作品を展示する公募展の存在意義は何処に在るのか疑問に思っている事もあります。これはどうなのだろうかと思う作品が堂々と展示されていて、見ていて困ったなと思う時が多々あります。
これは写真に関してはだけでは無く、公募展全般にたいしての感想です。

● 写真とアートの関係性のメモ
先日観た、奈良原一高の「王国」のモノクロ写真展に感銘を受けましたが
それはテーマを持った写真の王道に対してで、アートと捉えた訳ではありません。
写真がアートとなるには、作家の「作為あるいは行為」が感じ取れる事が必要だと思っています。

場所•時間をフレームで切り取るだけでは、写真がアートとはなり得ないだろうと思っています。そこには構図(これは後でトリミングで調整可能)に対するセンスと、画像をプリントする技術(これは本人が持っていない場合が多い)があれば成立するとう言う、写真表現そのものの簡単さにも起因しているのかと思います。イメージの定着(プリント)もお金をかけ、技術力の高い所に発注すれば良い仕上がりになるという格差が歴然としてあります。作品に適切なプリントする事も大事な表現の要素だと思います。ただそれは本人が持つ財力や情報などに左右されるので、写真そのものの本質とは違う様には思えます。

アートあるいは芸術的と言われる写真が、写真そのものでは無く、撮る行為を見せる(例えば同じ場所を撮り続け時間経過を見せる写真群とか、同じテーマで対象物を延々と撮り続けるなど…)がアーティスティックなどとかライフワークだのなどと持ち上げ評価されるのがチョットねと思う事があります。
時間や手間ひまかけた「行為」という事が理解出来ないわけではないのですが、その最終的成果物が写真の場合「画像」なんだろうと思っているので、それが見る側に感銘を与えて欲しいのです。時間をかけた行為に感嘆•驚愕しても、写真そのものに感銘を受ける事は少ない様に思います。

自分は「写真家」でも「芸術家」でもないので、アート的な写真とか芸術的写真とかはあまり語るべきではないのかもしれませんが、時折苛立って見えるのは自分のデザイン的思考と「写真好き」のせいかも知れません。
まあ、作れる画像は「デザイン的な写真」でしかないのですが。


デザイン的写真加工1
デザイン的写真加工2
デザイン的写真加工3

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