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一首評:大西民子「無証の夜」より

くびれたる箇所より不意にかき暗む内面をもちて壺のふくらみ

大西民子「無証の夜」より(『無数の耳』収録)

大西民子は1924年に生まれ1994年にこの世を去った、昭和期に活躍した歌人である。木俣修に入門し、のちに雑誌『形成』の創刊に参加していることでも知られる。

壺の外側や壺にさされた花木の描写はよく見かけるが、壺の内側を描写する短歌は少なくともわたしはこれ以外に知らない

このうたは、初句から四句まではいったい何のことを言っているのかは、わからない。「くびれたる」という言葉から、人間の身体の腰などのくびれが想起されるので、人間のことを描写しているのか、と最初は思ってしまう。

そう思いながら読み進めていくと、結句で「壺のふくらみ」とくる。ああ、そうか、これは壺の内側の描写なのだ、と気づく。語順の巧みさだ。

上の句で「くびれたる」「箇所」「かき暗む」と「カ行音」が繰り返されてきたのちに、結句で「ふくらみ」という柔らかげな言葉がくることによって、その対比がさらに余韻を際立たせる。

壺の中を覗き込んだことがある人は結構いるだろう。壺の形状にもよるが、くびれている箇所まではその色や壺の素材の質感はよく見えるが、そこから下は急に暗くなり、確かに懐中電灯か何かでも照らさない限り、見ることはできない。でも、普段はそんなことは意識にはのぼらない。

だから、このうたは、言われてみれば確かにその通りだが、普段は意識にのぼらないようなものを再発見するうたとも言える。

このうたの面白いところは、具体的な壺の形状や特徴はいっさい描かれていない点だ。そのような短歌は、具体に欠けて(抽象的すぎて)面白くなくなることも多いが、このうたは違う。

おそらく「壺のふくらみ」を結句に持ってきているからであろうが、具体がないがゆえに、あたかも世界に遍く存在する壺、そのすべてが暗い「内面」を持っているかのような気がしてくる。

壺に囲まれた内側に、人が見ることのできない空間がある。想像していくと少し恐ろしくなってくる。大げさかもしれないが、この短歌を読む前と読んだ後とで、世界の認識の仕方を変えられてしまう気さえする。

そんな壺のことに頭を巡らせていると、再び初句の「くびれたる」を思い出し、もしかするとここでの壺は「人体」のレトリックなのではないだろうか、とも思えてくる。作者が女性であることも手伝ってか、身体の「くびれたる」部分、おそらくは腰よりも下の子宮を内部に秘めた女性の身体も頭に浮かぶ。

浮かびつつも、やはりこれは壺の内側をうたう短歌と思いつつ、読み終える。誰もいない床の間に置かれた壺が、誰も見ることのできない空間を孕んで静かに置かれている姿が頭をよぎった。


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