見出し画像

「伯牙絶弦」

中国の故事にこんな話がある。

「昔、伯牙という名の琴の名手がいた。そしてその友人の鍾子期は、伯牙の奏でる琴のことが本当によくわかっていた。伯牙が高い山々の姿を思い浮かべながら琴を弾くと、鍾子期は「素晴らしいね、高くそびえ立つ山がまるで泰山のようだ」と感想を言う。伯牙が流れる水の面影を思い浮かべながら琴を弾くと、鍾子期は「素敵だね、流れ行く水の様子がまるで長江や黄河のようだ」と言う。

「そんな鍾子期に伯牙も「君の耳や想いの深さはまるで僕の心そのもので嬉しいよ、君の前は琴の音をごまかせやしない」と言って答える。

「そんな深く結びついた二人だが、不幸に鍾子期は病を得て、伯牙に先立ってしまう。鍾子期を亡くしてから、あれほどの琴の名手であったのに、伯牙は、琴の弦を切り、もう二度と琴を弾くことはなかった。」

私はこの故事を大学生の時に、中国の歴史に詳しい先輩から教えてもらった。今でこそ、心からの友人を失った時の悲しみを表す言葉として、弔辞などで、この四字熟語が聞かれるだけかもしれないが、私は、この故事がとても好きである。

伯牙と鍾子期の関係性に、心から憧れるのだ。

そして、私にとって、何か制作をするときは、「これでいいじゃないか」と思っている節がある。

ただひとり、深くわかってくれるのであれば、それだけでいい、という想い。

実はこの想いは、私のものづくりの時の感情の根幹であるとともに、私の創作における弱点であるとも思っている。「多くの人への伝わりやすさを考慮した創意工夫」を怠りがちになるからだ。ポピュラリティの欠如、と言い換えてもいい。

実際、私がこれまで経験してきた創作の多くは、「ごく一部の人には伝わる」「好きな人は好き」というものだった。もちろん好んでくれる人にはありがたいが、やはり少しだけ寂しい。

短歌については、まだそんなことを考える段階ですらないほど、稚拙な状態だ。それでも、作歌においては、これまで通り「伯牙と鍾子期の関係性」を愛しつつも、それに甘えることはないようにしたい、などと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?