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一首評:鈴木晴香「ここにいるしか」より

ハイウェイの入口かもしれない道を黙って進むときのアクセル
鈴木晴香「ここにいるしか」より(『心がめあて』収録)

まだ名前のついていない感情に対する名付けのような一首。

カーナビがこれだけ発達していても、車の運転をしていると、必ず道を間違うことがある。そしてそれらは、リカバリーしやすいものと取り返しがつき難いものとに分けられる。「乗るつもりのない高速道路への入口へと向かう道路を進んでしまう」瞬間は、おそらくその中でももっとも「取り返しのつかない感」が高いものだと思う(仮に道を間違ってなくとも、だ)。しかも、取り返しがつかないのみならず、その進んでいる間は「なにも出来ない」という歯がゆさも含めて。

まだ確信はないが道を間違ったかもしれない、でも今はまっすぐ進むしかない、間違っていたとしても料金所で(現金かETCカードかはわからないが)金を払い、高速道路に乗るところまでは決められてしまっている、リカバリーを考えるにしても、全てはその後だ……そんな取り返しのつかなさ。
考えてみれば、日々の生活や人生、あるいは恋愛や人間関係においても、こんな瞬間は往々にしてある。間違ったかもしれないが進むしかない瞬間、そしてその時の感情。それをこの歌は思い起こさせる。

この一首において素晴らしいと思うのは、結句の「アクセル」という単語。凡庸な読み手ならここで「進むときの歯がゆさ」とか「進むときの感情」といった結び方をすると思う。私ならきっとそうしてしまう。もちろんそれでも「取り返しのつかなさ」やその時の感情は描けるだろう。しかし、ここで「アクセル」と結ぶことで、そういう「取り返しのつかなさ」を感じつつ、なにがしかの行動を選択すること、そしてそれを選ぶ時の感情もまた描写される。二重の感情の描写。これがこの一首をさらに深めていると思う。「アクセル」という単語が名詞でありつつも「アクセルを踏む」という動詞のニュアンスも含んでいるのも、情報圧縮的な観点で巧みだ。

きっとこの作者は(あるいは作者が短歌で描く人物は)、ハイウェイへの入口に向かうときのみならず、こんな「取り返しのつかない」瞬間には「黙って」「アクセル」を踏むのだろう。奥田亡羊による(歌集こそ違うが)鈴木晴香の短歌への評の言葉を借りれば、まさに「ハードボイルド」だ。ハードボイルドのカッコよさだ。

最後に、この短歌における音的な仕掛けについて。結句の「ときのアクセル」の気持ち良さについて考えてみた。おそらく仕掛けはその手前から準備されている。三句から四句にかけての「道を黙って進むときの」には「み」「ま」「む」とマ行音が頻出して、もっさりした感じに満ちている。それに続く結句の「ときのアクセル」では、タ行カ行サ行ラ行と、こざっぱりした音感だけで出来ている。この落差が、気持ちよさ、それこそアクセルを踏み込んでいく感じを演出しているのではないだろうか。

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