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「AI短歌」について

昨日、ツイート上で「AI短歌」という言葉を見かけた。

AI(人工知能)についての、最新の情報にはキャッチアップできていないので、詳しいことはわからないが、すでに「Tweet generator」を活用してAIによる短歌の生成を試みている人はいるようだ。

そしておそらくは、もう数年もしないうちに、AIによる短歌の生成の精度はさらに上がり、ともすれば、どこかの短歌賞の受賞作が実はAIによるものだった、という事態も発生するのではないか、と予測している。

さて。情報処理技術の進歩はとどまるところはないだろうから、「AIが素晴らしい短歌を詠む日」を阻止することは困難だろう。だから私の興味は、「その日」が来た時に「短歌と人との関係」がどのように変質するか、ということにある。

目の前に素晴らしい短歌がある。それに心が動かされる自分がいる。しかし、その短歌が生身の人間によって詠まれたものなのか、それともAIがビッグデータを駆使して詠んだものなのか、判断できない……この時、人間にとって短歌というものは(短歌に限らず、詩というものは、と言い換えてもいい)どういうものになるのか。

そのような事態を嫌悪あるいは恐怖する人も多いと思う。しかし、私は実はそんなに深刻に考えていない。自分が短歌そのものを楽しんでいるのか、誰が作ったかを面白がっているのか、見極める機会になって、逆に面白いんじゃないかな、とさえ思っている。なにより、読む側が面白く読めればそれでいいのではないか、と。

あえて注文あるいは希望を言うとすれば、AIによって作られた短歌には「どんなAIによって作られた短歌なのか」という情報を付記してほしい、と思う。漠然と「AI」と呼ぶのではなく、「〇〇というソフトにこのような学習をさせたAI」というように、だ。

それは、たとえば「この短歌は人間が詠みました」といわれるだけでは不満で、「この短歌は斎藤茂吉によるものです」という情報を欲するのとほぼ同じことだ。

さらに、それほど遠くないかもしれない未来の、AI同士で短歌を詠み、読み合い評価し合う時代すら、私は見てみたい。そこで詠まれる短歌が人間には理解できないものであればなお良い。そんな世界が来てくれたら、人間側もまた、言葉やうたの「呪縛」から解放されるのではないだろうか。


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