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一首評:藤原建一「2023年1月14日 日経歌壇」掲載歌

盗作の祝辞が続き盗作の新郎新婦の笑顔輝く

藤原建一(2023年1月14日 日本経済新聞 日経歌壇 三枝昂之 選)

「借りもののことば」「借りものの表情」が横行する社会への怒りのうた、であろうか。

私も20年近く前に友人の結婚式で祝辞を述べた経験があるが、差し障りがないようにするために、文例集などから借りてきた言葉を並べて文章を組み立てた。おそらく多くの人がそうしているのだろう。

しかし藤原はそういう祝辞をはっきりと「盗作」であると喝破する。確かに、文例集がどれだけ「ご自由にお使いください」というものであったとしても、「借りもののことば」であることに変わりはない。

ましてや、そんな「どこかで聞いた言い回しの祝辞」ばかりが続いたら、聞いている側も辟易するだろう。だからこそこの喝破は痛快だ。

さて、問題は三句目以降の解釈だ。

三句目の「盗作」は「新郎新婦」と「笑顔」どちらに掛かるのだろうか、ということをさきほどから考えている。

「盗作の祝辞」を聴く。ありきたりの展開、ありきたりのユーモア、ありきたりの締め……そんなものに対しての反応もまた、どこかから借りてきたものになるのは間違いない。結婚式とは新郎新婦もまた「正しく」振る舞うことが求められる場だ。

この話題の時には快活に笑い、この展開の時には神妙にしつつ優しい笑顔を浮かべ……繰り返される「盗作の祝辞」に合わせて繰り返される新郎新婦の「正しい」表情にもまた、藤原は辟易とし、彼らの「笑顔」もまた「盗作」であるとしたのではないだろうか。

もうひとつ。「新郎新婦」が「盗作」である、という読みの可能性だ。人の属性が「盗作」というのは少し突飛な気もするが、「新郎新婦」というものもまた、あくまで現行の社会システムの中での「型」の一つでしかないことをいうために「盗作」とみなしているのかもしれない。

あるいは、日本人なのに西洋風のドレスとタキシードで着飾り、別にキリスト教徒でもないのに教会で式を挙げる新郎新婦に、あるいは初詣ぐらいでしか神社に行かないのに神前式を挙げる新郎新婦に、「文化の盗用」を見たのかもしれない。「新郎新婦」が身をおくセレモニーが「盗作」である、ということか。

どちらの読みであれ、作者の現在の社会への怒りに近い感情が感じられるうたであると思う。



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