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一首評:楠誓英「暗渠になる」より

左肩傾けまるごとひとをのむ海へと向かふ鈍色のバス
楠誓英「暗渠になる」より(『西瓜』創刊号収録)

私は今、自分の読みが誤読なのかどうか迷いながら、これを書き始めている。

この短歌は歌人・楠誓英によるもので、同人誌『西瓜』創刊号に収録された連作「暗渠となる」のうちの一首である。この同人誌には当月評コーナーもあり、歌人・門脇篤史によるこの連作の評が書かれている。そこではこの短歌について、このように書かれている。

七首目は乗降時に左に傾くバスと読んだが、擬人表現により、バスが異形のものに感じられる。
門脇篤史「近くて遠い場所」より(『西瓜』創刊号収録の当月評より)

なるほど確かに、この解説を読んだ後でこの短歌を読むと、乗降時に(それがノンステップバスの特徴によるものか、乗降客の重量によるものかはわからないが)乗降口のある左側に傾くバスのビジュアルが頭に鮮明に浮かぶ。「左肩傾けまるごとひとをのむ海へと向かふ鈍色の」までがすべて「バス」を形容している、という読みだ。

ところが、私はこの短歌を初読の時に、まったく別の読み方をしていたのだ。それは、擬人表現されているのは「バス」ではなく「海」ではないか、という読み。つまり「まるごとひとをのむ」が「海」に掛かっている、と読んだのだ。

「まるごとひとをのむ」「海」と聞いて、現代の日本に生きる我々が真っ先に頭に思い浮かべるのは、2011年3月11日に発生した東日本大震災でのあの光景だろう。あの日が脳裏によぎった瞬間、「左肩傾け」という形容も、普段であれば比較的平らに海岸にやってくる波が、暴力的な高低の落差を持って、あたかも片方の「肩」を「傾け」るように押し寄せてきたあの日の津波を描写しているのではないか、と思えてくる。

「左肩傾けまるごとひとをのむ」「海」へと……あの日、多くの人命を奪った海へと、一体誰を乗せてだろうか、鈍色のバスは向かっていく……そんな光景を詠んだ歌だと、私は解釈したのだ。

さて、この読み方を起点としてこの連作の他の短歌も読んでいくと、そこここに震災の気配が見えてくる。一首目の、

きみの街は凍雪だらう街灯に集まつて降る淡雪が見ゆ
楠誓英「暗渠になる」より(『西瓜』創刊号収録)

同じ雪の季節であっても、淡雪ではなく凍雪が降る街は、歌人が住む街よりもっと寒さが厳しい土地、それは例えば東北の都市のことではないだろうか。

さらに八首目。

脚元よりさびついてゆく歩道橋 階段はすでに冥府にありて
楠誓英「暗渠になる」より(『西瓜』創刊号収録)

最初私はこれを、ただ古びて朽ちていく歩道橋の描写と読んだ。しかし、これはただの老朽化ではなく、あの日、押し寄せた海水によって洗われ、それにより発錆がひどく進んでしまった歩道橋の描写なのではないだろうか。下の方ほど錆び、そして「冥府」という死に近い場所にある、ということも、ここに描かれているのがあの日をみてきた歩道橋であることを予感させる。

そして十首目。

灯にまみれし大きツリーを見下ろしぬ死者も見てゐるそのてつぺんを
楠誓英「暗渠になる」より(『西瓜』創刊号収録)

ここでついに「死者」という単語が出てくる。もちろん死はいつでもどこにでもあるものである。が、「灯にまみれし大きツリー」にはどこか鎮魂の気配が漂う。おそらく「まみれし」という表現が使われ、「飾る」という表現が出てこないことから、そのように感じられるのかもしれない。震災を悼むイルミネーションを見下ろしながら、震災で亡くなった人々を思う……そんな短歌なのではないだろうか。

先に述べた、門脇篤史による連作評では、このようにも書かれている。


連作中に提示される架橋、川へ続く階段、鈍色のバス、歩道橋などは、既知の世界と未知の世界との間の境界のようにも思えてくる。(中略)ここは知っている場所だが、同時に知らない場所でもあるのだろう。
門脇篤史「近くて遠い場所」より(『西瓜』創刊号収録の当月評より)

この読みは深く納得する。ただ、さらに踏み込んでこのように解釈できるのではないだろうか。これは、作者が今いる場所(ここも作者の略歴から牽強付会すれば、阪神・淡路大震災被災地である神戸市)の光景を見ながら、遠く離れた東北の被災地を重ね合わせ幻視し、その二つの世界(それは生と死の世界でもある)を橋渡ししつつ祈る鎮魂の連作なのではないだろうか。

なお、ここで、被災地の一つである岩手県を走る岩手県交通のバスの古いカラーリングは、銀色に青色のラインというものであることを記しておく。

一首評といいながら、連作評の様相を呈してきてしまったが、話のスタート地点は、連作七首目の歌において、「まるごとひとをのむ」という形容がどこに掛かっているのか、の解釈である(もしかしたらどちらか正解、ではなくどちらも正解なのかもしれない)。

そしてそれは最初に書いたように、誤読の可能性を大いにはらんでいるのだ。今これを書いている私は短歌初心者。短歌における約束事や定番の修辞についてまったく無知である。「短歌の修辞の約束事を踏まえると、そのようには絶対に読めない」と言われるかもしれないと思っている。そうしたら、ここまでの考察はその土台を失うことになるだろう。

願わくば、作者ご本人からの、あるいは短歌(の修辞)に詳しい方からのご教授をいただけると幸いである。

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