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ピアノの音

 「ピアノというものは、《ピアノ固有の音質》のうえに音楽が成立っている楽器で、それがなければ、同類の楽器よりはるかにいろいろな芸当のできる大型の打楽器の一つにすぎない」と、音楽評論家の吉田秀和さんが書いていた。シンプルで、こんなにも深く説得力のある一文に感動してしまう。ピアノの音質が楽器として固有だからこそ、制限が生まれるのではなくて、“音楽が成り立つ”ことを導き出してくださった。ピアノを演奏する身として、とても大きなひと言と思う。
 この一文は、よく堂々巡りしてしまう「ピアノは音質そのものが変わるのか?」という疑問にさえ答えてしまっている。音質そのものが変わらないから、ピアノという楽器が在るのだと。
 ピアノは、個体それぞれに特徴を持った弦やフェルト、ハンマーのアクションがあり、木材や素材それぞれの個性も同様にある。ひとつのピアノそのものが持っている音質というのは、この条件のもとで出せる音に限られる。だからこそ、いつ、どこで、どのようなピアノに出会っても、奏者たちが必ず「その奏者の音色」を奏でられるのだろう。打鍵のスピード、身体的な角度や重さ、音のバランス、音から音への移ろい方、消え際のコントロールなど、挙げ始めたら限りがないが、こういったものは奏者それぞれの体格などという以上に、美意識や感性による違いとして浮かび上がる。これを、技巧(テクニック)と呼ぶのかもしれない。音楽性と技巧は時おり対立するもののように言われることがあるが、どちらも欠かすことのできない、一直線上に存在するものであると、私は思う。個々のピアノの持つ音質そのものは変わらない。だからこそ、奏者それぞれがどのようなピアノでも、固有の音楽をすることができる。
 奏者は一秒にも満たない時間のなかで、先ほど触れたような技巧を駆使して音を紡ぐ。そうして、おおよそ一センチメートルの深さ、50グラム前後の重さの鍵盤は、無数の表情を生み出すために、それに応える。その「表情」なるものが、柔らかいとか硬いとか、温かいとか冷たいとか、音色に対するイメージに結びつく働きをする。ピアノから出た音そのものが熱を帯びたり光を生みだしたりするわけではない。ただ、そういったロマンは持ち得ていたいと思ってしまうし、そこからなにか、物語が綴られてくるのではとときめきも抱いてしまうのだけど。
 たとえば音と色の関係で、共感覚者というのは一定数いるらしい。そしてそのなかでも感覚が違うので、具体的になにをもって共感覚者と言えるのか、不明瞭でもある。それより精神的に負担のかかる人は、病気として症例もあるようだ。また、共感覚者とまではいかなくても、イメージとして頭に浮かぶという人は多いかもしれない。だから、ピアノから出た音そのものが、事実として氷くらい冷たいのだ、と仮にだれかから言われたとしても、それを否定することはできない。音を触ることはできないから、それはないのでは…と思ってしまうのは、私がそのような能力の持ち主ではないからであって、それが全てである、とは、とても言えない。感覚というものは、心と同じく、レントゲンにもMRIにも解明することができないのだから。
 世の中は、天秤に乗せることのできないもので溢れている。感覚もその一つだと思う。正しいとか正しくないとか、良いとか悪いとかではなくて、みな、感覚が違う。まったく同じになることが、ない。ただそれだけで十分だと思う。他者と比べること、ましてや否定することなどしなくとも。なにかそのような、聞いていたくない口論だとか、口つきや目つきに、ふっと淋しさの淵に立ったような気分になったことは、ないだろうか。私はある。でも不思議なことに、なぜだかそこから夢というのは、沸き起こってくるようだ。「ちょっと心が窮屈だな」と思ったとき、気が付いたらピアノを弾いたり、文章を書いたり、本を読んだりしてきた。ここでは、心がのびのびできる。ただただ静かで、光に満ちた隠れ家のように-ちょっとした淋しさを感じるとき、なにがその淋しさを形作っているのかを想えば、人は自然と、自分の隠れ家を見つけられるのではないだろうか。たいてい淋しさとは、人と人の間にあるのではない。自分と自分の間にある。

象徴の森

 感覚の呼応しあう瞬間に、ずっと興味を持っている。それも、直接的に関わりのあるものではなく、思いがけない瞬間に、あまりにも鮮明に想い出される、なにか。
 ドビュッシーのピアノ作品を紹介したくて、連載に書いた「象徴の森」という言葉を、もう少し丁寧に綴れたら良かった-そのような反省から、この文章を書き始めた。
 シャルル・ボードレールはドビュッシーなど音楽家だけでなく、多くの文化人に影響を与えたフランスの詩人である。私はとりわけ『群衆』が好きなのだが、いまは衝撃作として広まった『コレスポンダンス』に触れたい。抜粋で、私の訳したものになってしまうが、このような詩である。

  自然は、生きた神殿である
  ときおり、混乱した言葉を放つ-
  人間は、その象徴の森を通ってゆく
  親しげに見つめてくる、その森を

  長いエコーが遠くで溶け合うように
  暗く、そして深い「個」のなかで
  夜のように、光のように、壮大な
  香り、色、そして音は、呼応し合う

 呼応し合う感覚への驚きは、有名なところだとプルーストが『失われた時を求めて』に書き記している。とても美しく、芳しささえある文章だ。
 「人間が木々を見るのではなく、木々が人間を見ているのだ」というものは、メルロ=ポンティ(哲学者)やポール・ヴァレリー(批評家)、アンドレ・マルシャン(画家)などによっても語られてきた。フランスの文化人のこういった要素は、少なくともドビュッシーの音楽には流れているし、サティだって直接的には言わないけれど、きっとある。あれだけ哲学を極めた音楽家であるなら、そして敏感すぎるほどの心の持ち主であるならば、このような言葉の世界に疎いはずがない。
 ドビュッシーがボードレールの言葉を引用したピアノ曲に、『音と香りは夕暮れの大気に漂う』というものがある。ドビュッシーの作品のなかで、私がとくに好きなものだ。自分の好みを主張するのは申し訳ない気がするが、香りのついた煙の立ち込めるような、濃厚で気怠いこの響きに初めて出会ったときは、本当にボーっとするくらい衝撃的だった。
 ドビュッシーの作品を「絵画のようだ」という人は大勢いるけれど、私は「香水のようだ」と感じたのだった。それも、薄暗いひんやりとした秘密の部屋に、それぞれが特有の美しい色と妖しい光を帯びて、陳列されているかのように。この人の音楽は、とても緻密に構成されて、選び抜かれた音が気高く並んでいるというのに、なぜ心のなかで、抽象的な現象を引き起こすことができるのだろう。天才、と言えば簡単なのかもしれない。この謎を解明できるとは思えないが、解明しないほうが良いのかもしれない、などとも思う。いくらでも、この香水箱を手元に置いておきたい。私はまったくお酒を飲まないけれど、お酒好きな人ならもしかしたら、自分だけのワインセラーとも思うのかもしれない。
 音が「純粋に音でしかない」ということは、ものすごく正論であるし、守られるべき清らかなことと思う。だけれども、人の心を通したときに、どうしようもなく溢れ出てきてしまうなにかを引き起こすのもまた、音楽である。
 おかしな言い方になるかもしれないが、私は音には、音それぞれの美学があると思っている。だから奏者の手を離れた音は、聴き手それぞれの心のなかで、自由に歌う。それを奏者はコントロールすることができないし、聴き手だって、同じ場面で同じ気持ちになれるとも限らない。だからまた、音を追い求める。自分で説明することもできない心の渇いた部分で、自由に歌い出した音の残像を想いながら、また違った感覚の出会いを知る。
 先入観は、心を強張らせて耳を塞ぐ。けれどもドビュッシーのような名手は、強張った心の想像もしない機微の合間から、「個」のなかで感覚を出会わせてしまう。一度ぜひボードレールを手に取ってから、ドビュッシーを聴いてほしい。
 私たちは「木々を見ているのではなく、木々から見られ」、喜びも哀しみも含めて「象徴の森を通って」日々を生きている。そうか。同じことが、音でも言えないだろうか。私たちは音を聴いているようでいて、実は心の眠った部分-それはふだん隠している傷の多い部分でもある-を聴きつけた音が、入りこむのを待っている。日々、意識のもとにも上ってこない内なる声に気がつく瞬間の、懐かしい-けれども新鮮な驚きのある、出会いを求めて。


クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/