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【10クラ】第17回 音楽は自然のなかに

10分間のインターネット・ラジオ・クラシック【10クラ】
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第17回 音楽は自然のなかに

2021年8月13日配信

収録曲
♫クロード・ドビュッシー:雨の庭 ~《版画》より第3曲~

オープニング…サティ:ジュ・トゥ・ヴ
エンディング…ラヴェル:『ソナチネ』より 第2楽章「メヌエット」

演奏&MC:深貝理紗子(ピアニスト)


プログラムノート

自然に耳を傾けるなら、そこに音楽が在る―
ドビュッシーの音楽はその気張らない状態へ導いてくれるように思う。

「人間は満たされているもののほうが多くても、いつも無いものねだりをしては不平不満を口にする」
と、とある本で読んだ。
本当にそう思う。
あるものを当たり前と思い、当たり前は傲慢にも忘れていくのが人間である。

すぐ隣にあるものを芸術にしたのがドビュッシーでありサティだ。
それはまた、気取った格式ばった枠組みに入れられるよりも「自由」を好む音楽だ。

同時期の文人アンドレ・ジッドはこう書いている。
「私自身に作品の説明を求められるが、読んでくれた人が書いたほうがずっと良い」

これはつまり、自然と心で感じるままに文章を読んでほしいということでもあるだろうし、それを読めば説明などなくてもわかるだろうということだろうし、フランス人ということも考慮すれば、わからないなら説明してもわからないだろうという皮肉でもあるかもしれない。

なんにせよ、教養豊かな人間が冒険しながら経験してきた人生観を入れてくるものに、なんの知識もないまま立ち向かえるはずはない。

この時期は文化サロンによって相乗効果を生み出すほど文化全般が密接にかかわっている。
そのうえドビュッシーは親しかった仲間が音楽家以上に文学者だった。
それも、いわゆる「社会」を逸脱したような異端児である。

フランスの頽廃した文化人の描いたものは人間の「美しくない部分」であり、自然の「ありのまま」である。それは彼らの手にかかるとすべて「美しいもの」へと昇華する。

ボードレールのおどろおどろしい詩を読めばその世界観は想像がつくことと思う。その鋭い感性と激しい筆。惜しげもなく晒しだした心模様。きれいなものなど嘘くさいと言わんばかりに人の醜い情緒やもつれを表現したパンチの強さに高揚し、安堵する。

ドビュッシーの作品にはその過激さを引き継いだものと、人間から離れた自然の美しさを抽出したものがある。
《版画》は非常に詩的で風情溢れる作品だ。

1曲目の《塔》はジャワを中心とした東洋の楽器の響きに溢れ、第1音から神秘の世界へと誘い出す。独特な浮遊感に響き渡る硬質な音響効果は見事で、幾重にも織りなされる立体感は建築物を音によって創造する。万博によるジャポニズムブームも影響している。

2曲目の《グラナダの夕暮れ》は途端に、香水を開けたときのように夜の香りが匂い立つ。半音の妖艶さ、気怠く遊ぶハバネラのリズム。ドビュッシーの音楽のなかでも特に好きな作品なので、いずれゆっくり取り上げたい。

そして今回演奏する第3曲目の《雨の庭》。
描写のみならず、ドビュッシーはこの作品で非常に心温まる手法を凝らしている。
母国フランスの民謡「ねんねよ、坊や Dodo l'enfant do」の一部分を冒頭と中間のテーマメロディに、「もう森へなんか行かない Nous n'irons plus au bois」を後半のテーマに用いている。
雨という日常の一部分と、広く親しまれている民謡の親しみやすさ、とっつきやすさを融合し、さまざまに移りゆく雨模様と光模様、陽光の輝きから虹の色、雨上がりの初々しい匂いまでも感じさせるような音楽を描き出している。

自然に耳を傾けたら、こんなにも美しい音楽が私たちの日常には溢れているのだろうか。
もしそうだとしたら、もっともっと「在る」ものに心を寄せていかなくてはと思わせられる。

自らを含む人間の醜さに真っ向から対峙する鋭さと、自然を賛美する尊さを示してくれるフランス音楽。日常から芸術を見出すセンスには、いつもゾクゾクとさせられる。

クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/