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がん体験備忘録 ♯3 甲状腺編 ~③私にとっての「声」


病気のことからは少し離れるが、甲状腺がんの手術で大きな影響を受けた「声」について書き残しておきたい。

 子供の頃から何故か歌うことが大好きだった。母が音楽を専門としており、幼少期からピアノやソルフェージュの手ほどきを受けていたが、好きなのは歌だった。小学校の時には、先生に頼み込んで合唱クラブをつくってもらった。

 中学1年生の時にたまたま見ていたテレビ「NHK全国学校音楽コンクール 全国大会」に地元の高校が出ていた。「あの高校、合唱強いんだ」と初めて知り、志望校はそこに決めた。私の成績ではかなり背伸びをしなければならなかったが、「合唱をやりたい」の一念で必死で勉強をしたので、合格した時はとても嬉しかった。

 入った音楽部(つまり合唱部)は本当に楽しかった。授業はさっぱり分からず勉強にはついていけなかったが、部活だけは皆勤賞。コンクールの全国大会や全国高校文化祭にも出場。仲間とハーモニーをつくること、歌詞を解釈して表現することのすばらしさなどを体感する中で次第に「音楽を続けたい」と思うようになり、教育学部の音楽科に進むことにした。

 「合唱はやり尽くした」という思いがあったので、大学では1人で歌う声楽にシフトチェンジした。「声楽科」ではないのでそこまでやらなくてよいのだが、やればやるほど発見があるし声はよく出るようになるし、素晴らしい曲の数々に出会えるので、おもしろくてたまらなくなり、学生時代は歌に邁進した。

 そのころ、学外のソプラノ歌手、S先生を紹介してもらった。人間的にも技術的にもすばらしいS先生にすっかり魅せられ、がんの手術をすることになるまでの26年間、仕事をしながらもレッスンを受け続けた。

 仕事に就いてからも「歌える」ことは大きな強みとなった。高校の時に指揮者をやらせてもらったおかげで、子供の声を引き出す事は得意だったと思う。子供に「先生はどうしてそんなにきれいな声で歌えるの?」と聞かれたらちょっぴり誇らしいし、自分が歌った時に子供達の顔が輝くのを見るのは大きな喜びだった。音楽をする喜びや歌うことの楽しさが体に染みついている自分だからこそできることがあるような気がしていた。自分で歌って見せることが手っ取り早い指導法で、自分が歌えば子供も自然に歌い出し、歌唱指導では苦労しなかった。「自分ができなくても指導はできる」という教師のセオリーとは真逆の、悪い見本だった。

 そんな私が甲状腺がんにかかり「おそらく歌は歌えなくなります」と宣告された。声帯の動きを司る反回神経にどうしても触れてしまうらしい。「なるべく影響のないように努力するが、最悪なのはがんを取り残すこと。場合によっては迷わず神経を切ります」と言われた。「甲状腺がん」と言われた時は泣かなかったが、「歌は無理」と言われた時は涙が出た。これまで30年間やってきた事がゼロになる、自分で歌えなかったら、どうやって授業をすればよいのだろう。片腕がもぎ取られたような気分だった。

 「歌で身を立てている訳ではない」「歌が歌えなくても仕事はできる」「音楽の教師だけが教師としての道ではない」…。頭では分かるのだが、幼少の頃から自分の中で大きな柱であり続けた「歌」と決別しなければいけないと思うと心の整理がつかなかった。大した声ではなくても「声」は私のアイデンティティーの一つだった。

甲状腺全摘、左右リンパ節郭清の手術は、私なりのこんな事情を抱えて迎えた手術だった。

けれど…結果、

2年後、声帯の手術(披裂軟骨内転術)を受けて、歌えるようになりました。

ヽ(^。^)ノ。

(もちろん以前のようにはいきませんが…)のちほどこれについても書きたい。

♯披裂軟骨内転術


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