バックハウス最後の演奏会
コンサートへ行くのは、ワクワクする。途中の交通機関でも、その心の高まりはおさまらない。ホールに着き、チケットを入り口で提示する時の不思議な緊張感。席を探す時の、いいようのない不安感、そして見つけた時の安堵。開演のチャイムが鳴った後の沈黙、期待感。そして演奏者が登場してその期待感は最高潮に達し、最初の一音に、耳を澄ます瞬間のトキメキ。
誰もがこのワクワク感を経験する。できればそれがずっと続いてもらいたいものだと、いつも思っている。やはり音楽は、コンサートに限る。
残念だが、私たちは毎日演奏会へ足を運ぶことはできない。だからレコードやCDを聞くのだが、そんな中でもライブ録音はやはり魅力的だ。
20年前に偶然手に入れた印象的なライブ録音がある。バックハウスの最後の演奏会を収録した2枚組のCDである。
会場は、オーストリアのカルティナという町の教会。
プログラムを見ると、
1969年6月26日
ベートーヴェン:ピアノソナタ第21番「ワルトシュタイン」
シューベルト:楽興の時
モーツァルト:ピアノソナタ第11番「トルコ行進曲付き」
シューベルト:即興曲
1969年6月28日
ベートーヴェン:ピアノソナタ第18番(第三楽章で中止)
シューマン:幻想小曲集より2曲
シューベルト:即興曲
とある。
28日、ピアノソナタ18番の途中でバックハウス氏は気分が悪くなり、そのことは、CDでもアナウンスメントで告げられている。
急遽プログラムの変更と割愛をせざるを得なかった。それでも、さらに3曲、12分余り演奏を続ける。
2週間後、彼は死去する。これが最後の演奏会だった。
拍手と共にバックハウス氏が登場する様子がライブで伝えられる。
ピアノの異音も伴う、音としてはさほど良いものではないかもしれない。
聴衆の咳払いなども聞こえる。教会での演奏にしては、残響が全く感じられない。まるで生のピアノの音だ。
でも、演奏者にとって、このように丸裸の環境で、初めてその人の音楽が感じられるのではないか。やはりバックハウスはバックハウスだ。
当時80歳を超えた高齢。演奏そのものにもミスが多い。「ワルトシュタイン」などは、バックハウスの演奏で発売されている他のレコードやCDと比較して、なんとあぶなっかしいものだろうか。最盛期の演奏に比べ完成度はきわめて低い。しかし、私は不思議と心を奪われた。
それはきっと、コンサートという一期一会がもたらした魔力であった。この演奏から、私は、老熟したピアニストの気迫というものを感じた。
きっと聴衆にとっては極上のコンサートだっただろう。願わくば、タイムマシンがあれば、その場にいたかった、と真に思う。
ベートーヴェン以外に演奏されたシューベルトの「楽興の時」もしみじみとしていてよい。ベートーヴェン弾きのイメージしかない私にとっては、このようにシューベルトを優しげに弾くバックハウスは新たな発見だ。
あれから50年以上経過した今、私たちはこの貴重なコンサートの模様を、CDで聞ける。そのことを心から喜びたいと思う。
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