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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 21

第一楽章 シューマンの物語

20、ドレスデン 

 シューマン一家が越してきたドイツの都市ドレスデンは「北のフィレンツエ」と呼ばれる美しい街です。
 街にはエルベ川ゆったりとながれ、そのほとりに見事な建築の教会や宮殿が立ち並んでいます。学問のさかんなライプチヒとはまた違う大都会ですが、この街でも貴族や教会を中心に音楽が愛されていました。

 引っ越してしばらくすると、環境を変えたことでシューマンの気持ちも変わったのか、体調は次第に良くなってゆきます。
 しかし、いきなり作曲を始めてまた体調が逆戻りしてはいけないと思ったクララとシューマンは、二人で「対位法」の勉強をすることにしました。

 対位法とは作曲法のひとつで、和音をつなげる「和声法」と違い、ひとつの旋律に対して、別の旋律を動かして音楽をつくるやり方です。バッハの音楽はほとんどこの対位法で書かれていて、これだけの説明だと簡単に思えますが、実はとても難しく奥が深い作曲法です。
 シューマンも勉強を始めるとその面白さに改めて気づき、対位法で次々と曲を作るようになります。それはシューマンにとってとても良い頭と心の「リハビリ」になったようで、春になるころには大分元気になり、クララもほっとします。
 ちょうどそのころ三番目の女の子・ユリエが生まれたのも久々にシューマン家に訪れた明るい話題でした。

 こうしてようやく以前の力を取り戻したシューマンは、あの幸せな「交響曲の年」にスケッチしたままになっていた「幻想曲」を「ピアノ協奏曲」(作品54)に作り替え完成させました。
 ピアノ協奏曲は、ピアノとオーケストラが競演する曲です。今日でも名曲中の名曲として名高いこの協奏曲はクララを大変喜ばせました

「あなたの作った協奏曲を私が弾くのよ。何て素敵なんでしょう。
 それもこんなに素晴らしい曲。まるで天からの贈り物ね。
 私は王様にでもなったようだわ」

  この曲はソリストをクララがつとめ、時にはシューマンが指揮をして何度も演奏され大好評になったのです。

 残念ながら、ドレスデンにはライプチヒほど音楽に詳しい人が居たわけではありませんが、次第にたくさんの友人もできました。
 特に親しくなったのは、フェルディナント・ヒラーです。

フェルディナンド・ヒラー


ヒラーは、ピアニストでもありながら、指揮や合唱指導でも活躍していて、彼が作った「リーダーターフェル」という合唱団はとても有名でした。 
 ショパンやリスト、メンデルスゾーンとも親しいヒラーは、シューマン夫妻にもとても親切で、シューマンもヒラーを尊敬していました。

 そして、もう一人、ドレスデンには音楽の歴史を語る時忘れる事の出来ない巨人、リヒャルト・ワーグナーが居ました。

リヒャルト・ワーグナー


 この時31歳だったワーグナーはドレスデン宮廷歌劇場の第二指揮者を務めていて、すでに「リエンツィ」「さまよえるオランダ人」などのオペラを完成させ、シューマンがドレスデンに来た頃は「タンホイザー」の作曲にとりかかっていました。
 実はこの二人はお互いにまだ20歳の頃からの知り合いで、お互いの才能を認めている仲でしたが、音楽と性格は正反対です。二人とも音楽や文学・哲学に関して広く深い知識を持っていましたが、おしゃべりで自信家、世渡り上手でいい加減なところのあるワーグナーと、無口で内向的なシューマンが合うはずがありません。
 二人の作る音楽もまたその性格と同じように全く違うものでした。しかし、批評家でもあったシューマンは、ワーグナーの音楽の素晴らしさもまた素直に認める公平な耳を持っていました。

 やがて、ドレスデンに移り住んで一年がたった、1846年元旦。
 あの「ピアノ協奏曲」がライプチヒのゲヴァントハウスで初演されることになりました。もちろんピアノを弾くのはクララです。
「今年は良い年になりそうだわ」
 クララもようやく一安心といったところです。
 病と闘いながら作った新しい交響曲(交響曲第二番作品61)も完成し、秋にはメンデルスゾーンの指揮で演奏されるなど、シューマンは作曲家として力を取り戻したように見えました。
 
 更にこの年には、二人にとって初めての男の子・エミールも生まれています。
「こどもは何人いても良いものだ」
と、4人のパパになったシューマンも大喜びです。
「パパ、あそんで」「お話しきかせて」
 可愛いさかりの子どもたちはいつもシューマンの心を慰めてくれましたし、子供たちも優しくて、一緒に遊んでくれたり、お話を聞かせてくれたりするお父さんが大好きでした。

 しかし、幼い4人の子どもに囲まれクララは大忙しです。赤ちゃんを産んだからといってゆっくりしていることもできません。こどもたちの世話や自分の演奏会に加え、クララはシューマンが作曲にのめりこんでまたバランスを崩さないよう目を配り、時には静養やお医者さんに勧められた水浴びの治療法に連れ出すなどいつも気を配っていました。
 もしかすると一番手のかかる「こども」はロベルトだったのかもしれません。それに、子どもが増えればそれだけお金もかかります。
 そこで次にクララが計画したのはウイーンへの演奏旅行です。

「ウイーンの人たちにも、あなたの素晴らしい交響曲や協奏曲を聞いていただかなくては」
 11月、クララは上の二人の娘、マリエとエリゼを連れて親子4人でウイーンへ向かいました。下の二人、ユリーとエミールは身体も弱くまだ幼いのでお留守番です。
 しかし、せっかく出かけたのに、ウイーンでの演奏会は大成功とは言えません。ウイーンでは軽くて明るいイタリアの音楽が流行っていて、内面的で重厚なシューマンの音楽は余り人気が出ないのです。
一家はウイーンで寂しいクリスマスを迎えなくてはなりませんでした。

 それでも、本当に音楽を理解する人たちの応援で、ウイーンで迎えた新しい年は、また前の年のように「ピアノ協奏曲」と「交響曲第一番」で明けることができました。
 けれど、演奏会はまたもや成功したとは言えず、友人たちのやさしい心遣いや励ましに感謝しながらも、一家は複雑な思いでウイーンを後にしました。

※写真はドレスデンのオペラ座

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