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たくさんの三年手帳

<たくさんの三年手帳>

父が病院でつけていた三年手帳を母が食卓の目の前で読みながら、「お父さんはあの時も痛かったんだね」と、身体の不調が記されている旨を言いながらページをめくります。普段身体の痛みや不調を口にしなかった父も、無くなる数か月前から下肢のむくみや痺れに悩まされており、その様子が手帳には記されていました。「もっとわかってやれればよかった」と母は言いますが、確かに言う通りでもあり、とはいえ個人的な痛みはわかりようもなく、ただ手帳に記されたことを読むばかりです。

父のいた部屋の引き出しを開けてみたところ、たくさんの三年手帳が出てきて、どうやら父は以前から日々のことをそこに記していたようでした。1997年頃から手帳はあって、もっと探せば古いものが見つかるかもしれません。

私も2013年から三年日記をつけるようになり、2016年からは五年日記にして日々を書き留めています。元は妻の父親が十年日記を書いていて、それ良いなと倣って書き始めたのですが、それ以前から父は手帳をつけていた、ということを手帳の存在により知りました。血は争えないということでしょうか。

母にたくさんの三年手帳が見つかったよと見せたら、「しばらくはこれ読んでいられるね」と言いました。手帳を読みながら母は、父との記憶をたどる日々を送ります。


<故郷を離れる>

思えば6月2日から帰省して、半月の間故郷に居ました。そんなに長い期間故郷に居たのはいつぶりでしょうか。もしかすると高校生の夏休み以来に思います。慌ただしく過ぎた半月は、本当にあっという間でした。

兄家族と私の妻子は先週末に自宅に帰り、その後は私だけが残っていました。そして今日6月17日に故郷を離れることで、母は実家にひとりになります。「大丈夫だよ」と言う母に「大丈夫じゃないと困る」と返答して別れました。今は半月ぶりの東京の自宅でこの文章を書いていますが、「きっとひとりになると泣いちゃうね」と言っていた母は、三年手帳を見返しながら父との長い時間を過ごしていることでしょう。


<親しくしていた人たち>

葬儀を終えて落ち着いたのち、私が幼いころから親しくしていた両親の知人が数人訊ねてきました。私がおじさんになったように、皆さんおばあさんになっていて、何十年ぶりに会った人もいました。病気だったことをあまり知られたくなかった父は、そんな皆さんとは晩年はあまり会うことがなかったようで、皆さんにとっては突然の訃報に、とても驚いていました。

そんな皆さんに母が死に至る経緯を話しながら、時に涙ながらに説明する声が別の部屋にいながらも聞こえてきて、そうやって喋ることによって母は、父の死というものを輪郭づけていくのだろうかと思いました。死の直後にはとらえどころのわからない「父の死」というものが、自宅に祭壇ができて骨になり、日々手を合わせ遺骨遺影と向き合い、人に説明していくことで、徐々にどういうものかが捉えられるようになっていく。残された人はどうにかして、その死というものを自分の代えがたい体験として受容して、その人のことを思い出しながら、まだまだ生きていかなければならない。

訊ねてくれたひとりの方は、私も幼少からとてもお世話になった方なのですが、娘さんを先に亡くされ、それから14年経ったと言っていました。今でもそのことを気に病んでいて、「鬱っぽいの」と言っていました。「自分の親とか親戚とかは、順番だからそういうものだと思ったけど、あの子が亡くなって、初めて人が死ぬっていうことがわかった気がするの。もう二度と会えないっていうのは、こういうことなのかっていう。」そんな風に訥々と喋る姿に適切な返答はできませんでしたが、少なからず子供が先に亡くなるという体験は言葉にし辛く受容し難いことです。

親しい人が亡くなるということは、誰しもに訪れることではあるのですが、実際に目の前にその状況がやってくることにより、何でもなかった日常が違って見え、むしろ何でもなかった日常のありがたさが身に沁み、けどそうやって日常をまだまだ生きていかねばならないことが、今やれることなのかなと思います。

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