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講義 西欧音楽史 第2回:グレゴリオ聖歌

ごきげんよう。
今回は、グレゴリオ聖歌の講義……だけど。
まず、これから西欧音楽史の講義を進めていく上で、最初にお伝えしなきゃいけない大前提を二つ。
一つ目、グレゴリオ聖歌はクラシックじゃないことを講義中は常に認識しておいて。
詳しいことはルネサンス音楽辺りまで進んだ時に触れるけど、クラシックをクラシックたらしめてるのは3度の和音なの。
だから、和音の有無以前に、そもそもモノフォニーの音楽であるグレゴリオ聖歌は、クラシックとは定義できない。
後のクラシックの直接の基盤であることは事実だけど、グレゴリオ聖歌そのものはまだ「西欧の民族音楽」よ。
この問題はルネサンス音楽が始まるまでずっと付き纏うけど、絶対に忘れないで頂戴。
もう一つ、こっちも大切な話。
前回の古代ギリシアの音楽の講義と今回のグレゴリオ聖歌の講義じゃ、目的が全く違うの。
前回は西欧音楽史の前章、謂わば全体のプロローグに近い講義。
だから、内容もせいぜい当時の音楽を紹介する程度だったでしょ。
でも、今回以降は性質が違うの。
もちろん、西欧音楽史の講義である以上は、グレゴリオ聖歌とかネウマの成立過程みたいな部分も、きちんと説明するわ。
だけど、大人しくそれだけで終わらせるつもりは毛頭無いのよ。
講義内容にグレゴリオ聖歌の音楽理論の詳細も含める、つまり、もし皆さんがグレゴリオ聖歌先を書きたいと思った時に、(少なくとも理論上は)本物のグレゴリオ聖歌を実際に書けるだけの知識を身につけてもらうのが講義の目的に加わるの。
これは別に今回だけじゃなくて、講義内容がアルス・ノーヴァに進んでも十二音技法に進んでも同じ。
むしろ、古代ギリシアの音楽は、どんなものだったかを知れる資料が少なくて、紹介以上に具体的なことを書けなかったって表現する方が正しいわね。
当然、西欧音楽の発展史の方もおろそかにはしないけど、その時代ごとの音楽理論についても、今回からは本格的に講義させてもらう。
作曲に関心が無い方は、私が理論の話をしてる間は適当に聞き流してくれてて構わないけど、グレゴリオ聖歌がどんな風に作られてるのかに興味があったり、自分でも曲を作ってみたい方はちゃんと聞いて頂戴ね。

それじゃ、本番に入るわね。
グレゴリオ聖歌とは、キリスト教西方教会、つまりカトリック教会で歌われてた無伴奏で単旋律の聖歌……って言っても、これは別にグレゴリオ聖歌ならではの特徴じゃないわ。
例えば、ビザンティン聖歌は今でも無伴奏で単旋律(ただしモノフォニーじゃなくてカロフォニーって分類されてるわ)だし、元々、初期のキリスト教は古代ローマの奢侈な文化とか、神殿で楽器を使って祝祭をしてた多神教を激しく敵視してたから、キリスト教の聖歌も無伴奏で単旋律なのがデフォルトだったの。
アンティフォナしてみたり、オルガンを取り入れたりしたグレゴリオ聖歌とか、神が三位一体であらせられることを神学的な根拠にして、3声部のポリフォニーで歌われてきたジョージアの多声聖歌が、むしろ例外的ってこと。
他には、アビシニア聖歌も信徒たちが特に声を揃えずに陽気に踊りながら歌うヘテロフォニーで、ケベロとかツァナツェルとかメクワミャみたいな楽器を使ったリズム伴奏があるわね。
こうやって列挙したら、まるでポリフォニーとかヘテロフォニーばっかりみたいだけど、あくまでもそっちが例外。
例外扱いするにはカトリックはあまりに巨大だから、逆にこっちが正統みたいに見えてるの。
もっとも、そもそも主は「聖歌は全員が声を揃えて、伴奏なしの単旋律で歌わなければならない」とは私たちにお命じになられてないから、ポリフォニーだろうがフルオーケストラの伴奏が付いてようが、主を讃えるって目的と敬虔さを忘れなければ、別に構わないんだけど。
クリスチャンは絶対に地味に過ごさなきゃいけないっていうのはプロテスタントの倫理観で、カトリックだとサン・ピエトロ大聖堂みたいに、豪華な芸術で主のご栄光を地上に表現することこそ主への献身って考え方もあるのよ。
私が在俗修道女として音楽に取り組んでるのも、同じような文脈で、音楽の知識を広める奉仕の他に、修練を積んで音楽で主を讃える献身をしたいって理由もあるわ。

そうね、前説はこんなところかしら。
グレゴリオ聖歌といえば、やっぱり教会旋法。
どんな順序で講義を進めるべきか熟考したけど、まずはいきなり教会旋法そのものを具体的に解説することから始めていきましょう。


正格プロトゥス:DEFGABC
フィナリス:D
コンフィナリス:A

変格プロトゥス:ABCDEFG
フィナリス:D
コンフィナリス:F

正格デウテルス:EFGABCD
フィナリス:E
コンフィナリス:C

変格デウテルス:BCDEFGA
フィナリス:E
コンフィナリス:A

正格トリトゥス:FGABCDE
フィナリス:F
コンフィナリス:C

変格トリトゥス:CDEFGAB
フィナリス:F
コンフィナリス:A

正格テトラルドゥス:GABCDEF
フィナリス:G
コンフィナリス:D

変格テトラルドゥス:DEFGABC
フィナリス:G
コンフィナリス:C


この8つが、グレゴリオ聖歌で用いられる教会旋法。
教会旋法は全音階で、フィナリス(主音)ごとにDのプロトゥス、Eのデウテルス、Fのトリトゥス、Gのテトラルドゥスの4種。
前回の講義の時に予告しておいたのを皆さんが覚えておられるかは分からないけど、教会旋法の音階には古代ギリシアで使われてた3種の音階のうち、ディアトノンがそのまま引き継がれてるの。
理由は、初期のキリスト教が生まれ、拡大した古代世界では、ディアトノンが他の2つより一般的に用いられてたから。
アンビトゥス(音域)は1オクターブ以内に収めるのが原則で、アンビトゥスの範囲をどう設定するかで、正格と変格に分かれるわ。
正格のアンビトゥスはフィナリスから1オクターブ上、変格のアンビトゥスはフィナリスの下4度から上5度にかけて。
調性だとトニックに対してドミナントがあるみたいに、教会旋法では、主音の次に重要な属音がコンフィナリス。
正格旋法じゃフィナリスの5度上、変格じゃ3度上に置かれるけど、グレゴリオ聖歌じゃ増4度の進行は「音楽の悪魔」って呼ばれてたくらいの絶対的な禁則だったから、コンフィナリスがBになる時は、回避のために短2度上のCか長2度下のAに変更される。
具体的にこの現象が起きるのは、フィナリスがEの正格デウテルスね。
ちなみに、正格プロトゥスが響きに安定感があるから一番よく使われるスタンダードな旋法で、正格デウテルスが調性システムから一番遠い分だけ、グレゴリオ聖歌らしい響きが一番強い旋法よ。

今ご紹介したみたいに、教会旋法は正格と変格がそれぞれ4種ずつで計8種だけど、ここで皆さんには時系列について逆転的な発想の転換をしていただかなきゃいけないの。
皆さんの時代の感覚だと、まず教会旋法があって、それを使ってグレゴリオ聖歌を書くって思われるんじゃないかしら。
だけど、グレゴリオ聖歌の場合は先にローマ市で歌われてたローマ聖歌の数々があって、それがカロリング朝ルネサンスの時にグレゴリオ聖歌として発展していくのと並行して、8種の教会旋法が整えられたの。
きっと、この辺りは皆さんには不可解で、特に丁寧な説明が必要でしょうね。
要は、グレゴリオ聖歌の元になった西方教会の聖歌そのものは教会旋法が生まれる前、それこそキリスト教がローマ帝国の国教になる前から教会で歌われてたのよ。
そういう聖歌が先にあって、カロリング朝ルネサンスの中で、そこから抽出された規則性らしきものが教会旋法なの。
だから、グレゴリオ聖歌の中でも特に歴史が古い曲は、必ずしも教会旋法の理論に合致しないことも珍しくないわ。
教会旋法の数が8種である具体的な理由についてだけど、ビザンティン聖歌のエコイ(旋法)体系が8種だった(向こうではオクトイコスって呼ばれてるわ)ことの影響が全くなかったとは言えないでしょうね。
だけど、決して西方教会が無批判にそれを受け入れたんじゃなくて、8種って数は同じでも中身は完全に別物なのよ。
正格と変格でそれぞれ4種ずつで8種の旋法になることの根拠になる理論は、西方教会の側でちゃんと独自に構築されてたの。
簡単に言うと、教会旋法がオクトイコスから受けたと思われる影響は、あくまで「聖歌を8種の旋法に分類する必要があるって発想」に限定されてたってこと。
オクトイコスからの影響が具体的にどのくらいだったか、割合についての見解は研究者によって違うけど、私は「影響を受けたのは旋法って概念だけで、8つって数字すら偶然の一致の可能性が高い」って思ってるわ。

旋法って概念は東方教会から持ち込まれたものだけど、そこから先の理論の構築は、あくまでカトリックの自前なのよ。
当時の西欧の音楽家は、ルネサンス期に導入されて皆さんの時代でも一般的に用いられてるオクターブ種じゃなくて、グイド・ダレッツォさんが提唱した旋法種(modal nucleus)っていう長6度の階名(今で言うシが抜けてる)を全音階を扱うにあたっての基本単位にしてたの。
グイドさんはベネディクト会所属のイタリア人修道士で、ソルフェージュの概念と記譜に用いる譜線を発明してみせた、西欧音楽史に永遠に名前を残す伝説的な大音楽家。
とは言っても、音名と階名の数が違ってるこのシステムの運用は、実例を挙げなきゃオクターブ種を単位として無意識的に考えてる皆さんには想像が難しいでしょうね。
だから、実演させてもらうわ。
まず、旋法種の長6度の構成音は基準音からそれぞれ全-全-半-全-全の間隔だから、全音階で基準音になれるのはCとFとGの3つだけ。
とりあえずCを基準音にしたら、対応する音名はCDEFGA。
……あら、さっそく問題が発生しちゃったわね。
これじゃBに届かないから、アンビトゥスがBまで届いてるメロディをソルフェージュしたかったら途中で階名を読み替えなきゃいけないじゃない。
いきなりそんなことをさせられたら、いかにも混乱しそうでしょ?
ここで、Bを含むメロディをソルフェージュするなら読み替え先の候補は基準音になれるFとGの2つなんだけど、FだとB♭が、GだとBが現れるの。
結論から言うと、BとB♭は、時と場合によってどちらでも構わなかった。
つまり、グレゴリオ聖歌は全音階しか認めないけど、B♭とBの存在を同時に認めてたのよ。

この理由の説明がまた物凄く面倒で……ここで唐突に前回の講義を復習するけど、古代ギリシアじゃテトラコルドを2つ重ねて、ハルモニアイ(オクターブ)を7分割してたでしょ。
この辺りの理屈を詳しく説明してたらかえって難しいから、もうかなり雑に説明するわね。
ディアトノンの時、2回目に重ねた後、3回目と4回目をさっきと逆の重ね方にしたらどうなるか分かる?
他の6音は全く同じ音のオクターブ違いなのに、BだけがB♭とBの両方現れるの。
2つのBの問題は詳しく話し始めたら講義の時間が倍以上に膨れ上がっちゃうから、ここではこの程度の説明に留めておくけど、もっと深く理論的説明を知りたい方は個人的に質問してくださればきちんとお答えするわ。
もし希望が多かったら、別途補講させていただくけど。

それで、オクターブ下に単独のBがあるから、このBとB♭は「同じBだけど全く同じBじゃない音」として扱われるの。
だから、CDEFGAB♭Bの8音がグレゴリオ聖歌における全音階。
8音の全音階を7音程として扱いながら、6つの階名でBとB♭を随時使い分けながら読み替える……オクターブ種を使ってる皆さんから見たら、このシステムって非効率で面倒もいいところでしょ?

だけど、どうして旋法種っていうシステムが使われてたかの説明は後回しにして、先に旋法種の具体的な振る舞いを説明するわね。
教会旋法の理論が実際に聖歌に当てはめられるのは、フィナリスの1音下から5音上までの長6度の範囲の音階なの。

まず、プロトゥスだったらC-D-E-F-G-Aで音の間隔は全-全-半-全-全。
デウテルスならD-E-F-G-A-B、音の間隔は全-半-全-全-全。
トリトゥスはE-F-G-A-B-c、音の間隔は半-全-全-全-半。
テトラルドゥスはF-G-A-B-C-D、音の間隔は全-全-全-半-全。

どうかしら、音階の構造が全部違ってるでしょ。
各旋法に特有の響きがここから視覚化できるから、後は実際の聖歌の終止音と使われてる音階に基づいて、8つの旋法に分類していくだけ。

……だったら、フィナリス担当の旋法を持ってないAとBとCがフィナリスになってる聖歌は、どう扱えばいいのかしら。
扱い方は、意外と簡単。
Aがフィナリスだと構成音はG-A-B-C-D-E、間隔は全-全-半-全-全で、音階の構造がプロトゥスと全く同じよね。
だから、Aがフィナリスの聖歌はプロトゥスに分類されるの。
次に、Bがフィナリスの場合は、BをB♭に半音下げたら音階の構成音の間隔がデウテルスと同じになるでしょ?
旋法種ではBとB♭は「同じBだけど全く同じBじゃない音」だから、Bがフィナリスの聖歌はデウテルスに分類する。
同じ理屈で、Cがフィナリスなら、分類先はトリトゥス。
だから、フィナリスがD、E、F、Gの教会旋法は存在するけど、A、B、Cの教会旋法は存在しないのよ。
だって、なくても問題が起きないなら、わざわざ作る必要もないでしょ?
教会旋法は、こうやって音階にある8つの音程を管理したの。
これが近親性(affinitas)って概念で、フィナリスがそれぞれA、B、Cの聖歌を、フィナリスとその前後の音階に基づいて教会旋法の理論に組み込むこと。
そして、これが最も重要なポイント。
グレゴリオ聖歌を支配する近親性ってシステムは、クラシックみたいにオクターブ種を単位にすると成り立たないのよ。
理由は、上下に7度まで広げても音階の構造が他の音程のそれと全く同じになる全音階の音程は、オクターブしか存在しないから。
異なる音名の間に同じ構造が生まれるのは、長6度の範囲が限界なの。
グレゴリオ聖歌でオクターブ種じゃなくて旋法種が採用されたのは、これが理由。
各旋法に特有の響きは旋法種の範囲で決められるし、旋法種じゃないとグレゴリオ聖歌全体を統括する近親性のシステムが成り立たないの。
旋法種は(皆さんの感覚からしたら)とても非効率で難解でしょうけど、その非効率さと難解さがないと、グレゴリオ聖歌って音楽体系は成立し得なかったってこと。

ただし、(増4度進行の禁則の場合は別として)特に規則もなく随時交代するB♭とBの問題は、理論を難解かつ若干不合理にはするけど、別に悪いことばかりでもないの。
何故なら、意図的にB♭とBを交代させたら、近親性を利用して移高なしの移旋が可能だから。
この手法には、旋法種の概念そのものを発明したグイドさん本人も転旋(transformatio)って表現で言及してて、こうすればフィナリスを変えずに旋法だけを変えられるわ。

こういうことが可能って考えたら、グレゴリオ聖歌はただクラシックとは根本的に思考法が違ってるだけで、緻密に構築されたかなり論理的な音楽体系でしょ?
だけど、それって裏返したら、基礎になってる旋法種が攻撃されたら連鎖的に近親性システム全体が崩壊しちゃうことも意味してるの。
実際、皆さんの感覚からしたら旋法種の概念はかなり不合理よね。
オクターブ種を階名7個で管理する方が遥かに効率的じゃない。
3度の和音とかと並んで、ルネサンス音楽に入った時(つまりクラシックが始まった時)にいくつかパラダイムシフトが起きたんだけど、その一つがこれ。
ルネサンス音楽の時代の音楽家の皆さんは、旋法種よりオクターブ種の方が優れてると考えるようになった。
時系列的に進めていきたいから詳しい説明はルネサンス音楽の講義の時にするけど、グラレアーヌスさんがそれまでの旋法種の概念を批判してオクターブ種を採用したことが、当時の教会旋法に致命的な打撃を与えた事実には先に言及しておくわ。

それで、次は……さっき説明を後回しにした、まだ一つだけ未解決のまま残ってる問題を片付けましょうか。
そもそも、どうして旋法種が採用されたのか。
確かに近親性のシステムにとっては旋法種の方がずっと都合がいいけど、最初からグレゴリオ聖歌をオクターブ種で扱ってたら、もっと(皆さんから見て)合理的なシステムを構築できたはずよね。
これを単に「価値観とか時代背景の違い」で片付けちゃうのは簡単だけど、それじゃ面白くないでしょ。
やるからには、私の知見で可能な限り詳しい講義をしたいの。
この問題を詳しく掘り下げるために重要になるのが、私が今日の講義の最初の方で言った逆転的な時系列って概念。
皆さんがまだ覚えててくださったら嬉しいわ。
改めて言うと、順序としてまずグレゴリオ聖歌が先にあって、そこから教会旋法の構造が抽出されたの。
それで、9世紀辺りの西欧で、絶対音高を取るのがそう簡単にできるようなことだったと思う?
当時はまだ音高を表すためのヘルツもセントもなかったし、機械にも頼れなかったのよ。
当時の方には、任意の聖歌のフィナリスの絶対音高が何かなんて、生半可じゃ分かりようがなかったはず。
多分、現在進行形で歌ってる聖歌隊の方々でさえ、今自分が歌ってる音の絶対音高を把握できてなかったでしょうね。
だから、オクトイコスの影響でカトリックでも聖歌を分類しようってなった時に、とりあえずメロディの中の相対音高を一曲一曲取っていくことになったんでしょう。
だって、当時の技術水準じゃ、絶対音高を取るより相対音高を取る方がずっと簡単だもの。
そうやって相対音高の中に共通するパターンを探していったら、先に見つかったのはオクターブ種じゃなくて、スケールがより小さい近親性の方だった。
そして、近親性は実際に旋法としての特有の響きと機能を持ってるでしょ。
私が教会旋法がオクトイコスから影響を受けたのは本当に「旋法」の概念だけで、8種って数さえも偶然同じになっただけでカトリックのオリジナルって考えてるのは、これが大きな理由。
この辺りの議論はともかく、旋法として機能するって証明された近親性の構造に全音階の絶対音高を当てはめたら、それがそのまま旋法種になるわけ。
つまり、「聖歌→近親性→教会旋法→旋法種」って、皆さんの感覚とは真逆の時系列でシステムが構築されていったの。
どうかしら、こう解釈したら、グレゴリオ聖歌でオクターブ種じゃなくて旋法種が採用された理由を合理的に説明できるでしょ?
教会旋法の枠じゃ分類しきれない、古いグレゴリオ聖歌が存在してる理由も。

さて、教会旋法の成立過程についてはこれくらいね。
まだまだ講義しなきゃいけない事柄は山ほど残ってるんだけど、ここから先はどう続けたものかしら。
そうね、そもそも旋法って何?って話をしてみましょうか。
旋法と音階の違いについて、古代ギリシアの音楽の講義の時には触れなかったし、話が少し脱線するけど今のうちに触れておくことにするわ。
どうせ、いつかは触れなきゃいけない問題だから。
音階(Scale)と旋法(Mode)って、直感的にはかなり区別し辛いし理解しにくいでしょ。
この2つの概念の違いを分かりやすく講義するために、便宜的にクラシックの和声法を例に引用するわね。
例えば、皆さんも知ってるハ長調には「ドレミファソラシ」って音程が含まれてるでしょ?
この時、ハ長調で使っていい音程を単純に「ドレミファソラシ」って音高順に並べてたものが音階。
それで、調にはトニックとドミナントとサブドミナントがあるわよね。
ハ長調だったら順にド、ソ、ファ。
そうやって「ドレミファソラシ」って並んでる音程の各々に、理論的な意味や振る舞いが与えられてるのが旋法。
だから、西欧音楽じゃこういうことはしないけど、例えばジョージアの多声聖歌なんかだと、使ってる旋法の関係で2度と9度の音がオクターブなのに旋律とか和音の中で別の音みたいに振る舞ったりするの。

つまり、調性は縦の音の重ね方で曲を構築するけど、旋法は横の音の並べ方で曲を構築するの。
例えば、和音がある音楽を普段から当たり前に聴いてる皆さんにとっては、アラビア音楽とかカルナータカ音楽みたいな単旋律の民族音楽を聴いても、きっと「構成とか展開が単調で退屈」って感じるでしょ?
だけど、それらの民族音楽に慣れ親しんでるその地域の方々が狭義のクラシックを聴いたら、「旋法がたった2つしか無くて退屈」って感じるの。
ポリフォニーとかホモフォニーを発達させた西欧音楽は縦の和声の響き(調性)を楽しむけど、ヘテロフォニーの民族音楽は横の旋律の響き(旋法性)を楽しむから。
これは別にどっちが優れてるとかじゃなくて、純粋に価値観の違い。
私は常々「音楽に国境はある」って言ってきたけど、これはまさしく音楽にある国境の典型的な実例ね。
だから、単旋律を8つの近親性で響かせてるグレゴリオ聖歌も完璧に民族音楽なの。
教会旋法は「西欧の民族音楽の音楽理論」の役割を持ってたってことね。
だから、教会旋法はその名の通り旋法なの。
音階じゃないのよ。

それじゃ、旋法って概念全般について話し終わったから、次は肝心の「西欧の民族音楽の作曲理論」ね。
まず、グレゴリオ聖歌はほぼ必ず3拍子で歌われたわ。
理由は簡単。
当時は神が三位一体であらせられることを理由に、3が聖数だと考えられてたから。
そういう宗教的な理由で3拍子がルールになってたから、グレゴリオ聖歌に限らず、教皇権の弱体化が始まる前の西欧音楽は3拍子ばかりだったのよ。
皆さんの時代じゃ4拍子が自然で3拍子は変化球だけど、当時はそうじゃなかったの。
福音書は4冊だし、エデンに流れてる川の数も4本だから私は4も十分にいい数だと思うんだけど、12世紀辺りまでの西欧で堂々と4拍子礼賛をしたら、その場で異端宣告を受けるかもしれないわね。
そんな感じで3拍子がルールで、使う音律はディアトノンと一緒に古代ギリシアから引き継いだピタゴラス音律。
8種の教会旋法はさっき説明したみたいにどれも近親性を利用した全音階で、フィナリスは曲の最初と最後で必ず鳴らすのが規則(これもかなり民族音楽的な発想)。
それで、正格と変格じゃ、当然だけど旋法としての振る舞いが違う。
正格はフィナリスをオクターブ違いで2つ持ってる(システムとして旋法種を使ってただけで、オクターブが同じ音って概念はグレゴリオ聖歌にもあったの)から、旋律は両者の間を行き来するわ。
対して、変格はフィナリスが1つだから、旋律はそれを軸に周りを揺れ動くように振る舞う。
一般論として、旋法ってものには主音の他に、その次に重要な音があるのが普通。
呼び名は違ったりするけど、他の地域の民族音楽でもそう、例えばアラビア音楽ならカラール(主音)とガッマズ(支配音)。
教会旋法の属音であるコンフィナリスは、旋法性を強めるためにフィナリスと一緒に他の音より頻繁に使うのが別に規則ってほどじゃないけどたしなみね。
メロディの進行は長短2度、長短3度、完全4度、完全5度が原則。
旋法種では扱いきれないから長6度以上の跳躍進行はしないこと、増4度は絶対の禁則。
グレゴリオ聖歌はモノフォニーの音楽だから縦の和音がないけど、メロディの横の流れで増4度が絶対の禁則なのは、グレゴリオ聖歌が教会で歌われるものだから。
これの理由も、当時の時代背景と文化を先に理解していただかないと説明できないわ。
グレゴリオ聖歌が歌われてた頃の教会は一般的にはロマネスク建築で、特に古い教会はカロリング朝建築の様式で建てられてたの。
ステンドグラスなんかは技術として存在はしてたけど、普及したのはロマネスク建築の後のゴシック建築の時代で、当時の教会にはステンドグラスは普通はなかった。
これは西欧建築史の講義じゃないから簡単に言うと、当時の教会は石の壁が剥き出しになってて、内部も皆さんの時代の教会より狭かったの。
カトリックの教会論じゃ、教会は教会としての聖性があれば、どれだけ狭くたって問題はないんだけど。
だから、当時歌われてたグレゴリオ聖歌は壁とか天井に反響して、モノフォニーだけど前後の歌声が重なり合って聴こえてたのよ。
複数の音が重なり合って聴こえてたのに純正律じゃなくてピタゴラス音律が使われてたのは、ピタゴラス音律は半音の間隔が狭いからメロディの横の流れでは純正律みたいな他の音律より美しくなるのと、当時は3度の和音がまだ協和音じゃなくて、そもそも純正律を使う理由がなかったから。
前後の音が重なり合って聴こえるから、メロディの中に増4度の進行があると、増4度の縦の響きが聴こえちゃうの。
これが増4度の進行が絶対の禁則になった理由。
他には、禁則じゃないけど、グレゴリオ聖歌には半音進行が少ない傾向があって、だから自ずと響きが5音音階に近くなるわ。
この理由については私の推測だけど、東方教会では今でも聖人だけどカトリックではシクストゥス5世聖下の時代に異端者と断じられたアレクサンドリアのクレメンスさんが著書で半音階で進行するメロディは禁止されるべきって主張なさってて、その影響で古い聖歌には意図的に半音進行を避けて歌われたものが多くて、そこから近親性と旋法種を抽出した結果、そういう傾向がグレゴリオ聖歌に現れたんじゃないかしら。
いずれにせよ、半音進行は別に禁じられてないし、異端者のクレメンスさんが主張した半音進行の禁止に従う必要なんてないから、グレゴリオ聖歌にそういう傾向があるってだけで、皆さんがグレゴリオ聖歌を書く時に何がなんでも半音進行を避ける必要はないわ。

さて、ひとまず理論面はこんな感じね。
ここまで講義を真面目に聞いてくださった皆さんなら、もうグレゴリオ聖歌を十分に書けるようになってるはずよ。
ラテン語で歌詞を書く語学力にまでは責任を持てないけど。
とはいえ、まだ講義は折り返し地点。
グレゴリオ聖歌に関しては、しなきゃいけない、大事で大変な講義内容がまだ一つ残ってるの。
それはネウマ、つまり記譜法の話。
残念なことにネウマの記号は普通のフォントじゃ表示できないから、そもそも講義内容がちゃんと伝わるかって不安があるけど、そこを気にしたら西欧音楽史の講義自体を進められないから進めるだけ進めるわ。
理解しにくい講義内容にならざるを得ないのは自覚してるから、もし不明瞭な点があったら何でも訊いて頂戴。

そもそも、ネウマって何かしら。
本来は、文字の上に注記されたアクセント記号のこと。
コイネーと古典ラテン語はピッチアクセントだったから、ある音節を高く発音するか低く発音するかの目印ね。
ネウマって単語そのものもコイネー由来。
そのためにあったヴィルガとプンクトゥムって2種の記号が、聖歌の音程を覚えるための補助用途に転用されたの。
これが西欧音楽史における記譜の始まり。
そうね……例えば、私の愚姉の日本雅楽たんが担当してる日本の雅楽の楽譜って、狭義のクラシック的な意味の楽譜じゃなくて、口伝の暗記の補助用途でしょ?
あれと似たようなものって理解してくださればいいわ。
それで、ヴィルガは元々は高アクセントの記号で、ネウマとしては一つ前の音から相対的に長くて高く発音するように指示する。
プンクトゥムは元は低アクセントの記号で、ネウマとしては前の音より相対的に短くて低い発音を指示する。
初期のネウマは、この2つの記号だけで表記されてたの。
これがどういうことか、お分かりいただけるかしら。
当時のネウマに可能だったのは、漠然とした相対音高と音価の指示だけだったの。
音価が曖昧にしか表記できないことは、西欧音楽史じゃルネサンス音楽の時代に白色計量記譜法が発明されるまでずっと大きな問題として横たわり続けたし、音高だって一度でもネウマ記号を読み間違えたら、最後まで間違いに気付けないまま歌い終わっちゃう。
時代的に、そもそも基準音の絶対音高を取ること自体がまず難しいって話も既にしたでしょ?

逆に言えば、グレゴリオ聖歌の記譜は本来その程度で十分だったの。
むしろ、これ以上何か必要かしら?
グレゴリオ聖歌は単旋律のモノフォニー音楽なのよ。
改めて考えてみてくだされば、ご理解いただけるはずよ。
そもそもの話、そんな古い時代の聖歌が毎回同じように歌われてたはずがないわけ。
もっと新しい時代にもっと詳細に記譜された狭義のクラシックだって、指揮者の解釈によって同じ曲の演奏が自由自在に変わるのよ。
常識的に考えて、それより古い時代の聖歌にまともな再現性があったはずがないのよ。
当たり前だけど、同じメロディが街によって全く違う速度や音高で歌われてたでしょうし、同じ歌い手がその時の気分で全く違う唱法をすることだってあったはず。
だから、純粋に音楽的な理由じゃない何かの圧力が加わってなければ、ネウマの進化はきっとヴィルガとプンクトゥムで終わってたでしょうね。

でも、それじゃ駄目だったの。
教皇庁にとっては、それで終わらせるわけにはいかなかったのよ。
だって、普遍(カトリック)だもの。
教皇権が及ぶ全ての教会で同じように聖歌が歌われなきゃ、地域による独自性なんてまさしく異端の発想よね。
だから教皇庁のトップダウンでグレゴリオ聖歌はあっという間に西欧全体を塗り潰したけど、典礼音楽だけグレゴリオ聖歌に一本化したからって、それが各地で同じように歌われるかはまた話が別でしょ?
先述の問題は何一つ解決してないんだから、どの教会でも正確に歌える方法を見つけなきゃ。
そもそも、近親性で聖歌が分類されたのもそういう文脈の上でのことだし、ネウマが少しずつ改良されていったのも同じ。
具体的には、連続した2音や3音の音高変化を指示する記号の追加とか、形を四角くして音高を指示する視覚的表現の導入とか。

例えば、適当な五線譜から音部記号と譜線を消して、音符だけそのままの位置に残したとしましょう。
それを見ても絶対音高は分からないけど、音符が書かれてる位置で大体のメロディの形は分かるわよね。
だったら、それを逆再生するみたいに、並んでるネウマに音部記号と譜線を付け加えたら、絶対音高が把握できるようになるじゃない。
もちろんそんなに簡単に話が進んだわけじゃないけど、数百年かけて各地の修道院でアイデアが蓄積されて、最終的に完成したのが音部記号で絶対音高が指示された4本の譜線の上に四角ネウマが踊ってる、譜線ネウマ。
これが、皆さんの時代でもグレゴリオ聖歌のために用いられてる記譜法。
音楽理論としての教会旋法の発達と記譜法としてのネウマの発達は、絶対音高の指示って同じ目的に至るための並行的な現象なの。
オーソドックスのビザンティン聖歌には譜線も音部記号も取り入れずに、ネウマのままで絶対音高とリズムはおろか強弱表現の指示すらやってのける(厳密には、音部記号代わりにマルティリアイはあるけど)ビザンティン・ネウマって極めて高度な記譜法があって、とても感嘆させられるけど……ただでさえ講義が長引いてるから、これ以上の寄り道はやめましょう。

話を戻すけど、先述のようにアンビトゥスは1オクターブ以内なんだから、グレゴリオ聖歌の記譜には譜線は4本で十分。
音部記号と譜線のおかげで無事に絶対音高が表記できるようになって、めでたしめでたし……ならよかったんだけど、そうじゃなかったの。
だって、音価を表記できない問題は何一つ解決してないでしょ?
だけど、カトリックは音価を表現できない譜線ネウマで満足してたみたい。
定説がないから憶測になっちゃうけど、理由はいくつか考えられるわ。
グレゴリオ聖歌は自由リズムだった(から音価の表現がそもそも不要だった)って説はわりと有力だし、古典ラテン語が教会ラテン語に移り変わるに伴うアクセントの変化(後述)がこの時期に起きたからかもしれない。

これはかなり誤解しやすい部分だけど、譜線ネウマの音価の問題についての議論の焦点は「譜線ネウマが絶対音価を表記できるようにならなかったこと」じゃないのよ。
正しくは「初期のネウマはかなり不完全とはいえヴィルガとプンクトゥムの組み合わせで相対音価を表記可能だったのに、何故か譜線ネウマでは音価の表記が一切できなくなったこと」なの。
これこそ、大きな謎として横たわってる問題なのよ。
ポリフォニー音楽の記譜には音価の表記が必須だから、オルガヌムの発展に伴って、より正確なリズム表記のためにモード記譜法が成立していったけど、これ以上進んだらグレゴリオ聖歌の範疇から外れちゃうから、記譜法の発展の話は次回に譲って、今回の講義じゃここまでにしましょう。


じゃ、いつものお約束。
具体的に譜線ネウマで使われる四角ネウマを列挙していくわ。

ハ音記号/ヘ音記号

音部記号。
皆さんもよくご存知の五線譜で使われてるものの直接のご先祖だけど、使われ方は今とちょっと違う。
譜面の冒頭に置くのは同じだけど、4本の譜線のどれを基準線(その音高の線)にしてもいいの。
譜線ネウマは譜線の外に四角ネウマが出ちゃいけない(だって、出たら絶対音高が分からなくなるでしょ)から、四角ネウマを譜線内に収めるために途中に音部記号を書いて基準線の音高を変えるのもあり。
ちなみに、CとFが選ばれた理由は、両方とも前の音が全音下じゃなくて半音下(BとE)だから。


ヴィルガ/プンクトゥム

前の音より相対的に長く高い音を示す音符と、逆に相対的に短く低い音を示す音符……だったのは初期の話で、譜線ネウマではどっちも同じ音符として扱われてた。
その原因はグレゴリオ聖歌のリズムの再現って難問と密接に関係するから、後で詳しく触れることにして今は流すわね。


ペス

低-高って連続する2音の音高変化(上昇)を示す音符。
五線譜と違って、譜線ネウマにはこういう2音とか3音単位の音高の移動を指示する音符が多いの。
思いっきり相対音高的な発想ね。
そもそも譜線ネウマの目的は既に存在してるグレゴリオ聖歌のメロディの絶対音高の指示だから、最初から分かってる相対音高のパターンを表記するためなら、こういう記号で略記する方が楽で話が早いわけ。
つまり、新曲を書くことをあまり想定してない記譜法ってことね(もちろん、しようと思えばできるけど)。


クリヴィス

ペスとは逆に、高-低って音高変化(下降)を示す音符。


スカンディクス

連続する3音全ての上昇を示す音符。


クリマクス

3音全ての下降を示す音符。
クリスマスじゃないわよ。


ポッレクトゥス

高-低-高って音高の変化を示す音符。
さっきも言ったけど、こういう音符は完全に教会旋法の世界の産物よね。


トルクルス

低-高-低って音高の変化を示す音符。


ポッレクトゥス・フレクスス

高-低-高-低って音高の変化を示す音符。
遂に4音に突入。
前もって相対音高のパターンが分かってないと使えない音符。


スカンディクス・フレクスス

高-高-高-低。


トルクルス・レスピヌス

低-高-低-高。


ペス・スブプンクティス

低-高-低-低。
こんな風に書いてると、何だか日本語のアクセントの話をしてるみたいよね……っていうのはちょっとした伏線。


トリゴン

同音を2音連続した後に3音目が下がるって、ちょっと複雑な指示の音符。


ストローファ

同音連打。


フラット

働きそのものは五線譜の♭と全く同じ。
だけど、教会旋法にはさっき解説した旋法種の概念があるから、効果があるのはBに対してだけ。
教会旋法にはB♭以外の変位音がないから、これは当然の話ね。


クストス

ページの横幅の都合で譜線は下の行に折り返すけど、行の一番後ろに置いて次の行の最初の音符の絶対音高を指示しておく記号。
これがないと、譜線ネウマは行を1度折り返しただけで絶対音高を見失っちゃう。


モラ

五線譜でいう付点。
効果は五線譜のそれとは違って、これが付いた音符は音価が倍になるの。


水平エピセマ

音符の上に置かれた記号で、どうやら音価を伸ばす効果を持ってたみたい。


クイリスマ

常に複音符の上にだけ出現するから、トリルを指示する記号だったみたい。


さて、ここまで譜線ネウマにある記号の機能を列記してきたけど……私にとっても不本意なことに、必ずしもこれが全て正しいとは言い切れないのよ。
終盤に歯切れが悪くなっちゃったみたいに。
何百年も後だけど、パレストリーナさんの時代にはカトリックは当然のように聖歌をポリフォニーで歌ってたでしょ。
それで、さっきも言ったけど、音価を表記できない譜線ネウマって、ポリフォニーには全く適してない(ポリフォニー音楽の記譜法としては実用に堪えない)のよ。
だから、派手で華やかなポリフォニーに押されて、グレゴリオ聖歌は一時的に断絶しちゃったの。
そうやって数百年間忘れ去られてたグレゴリオ聖歌を復興させようって言い出したのがソレム修道院なんだけど、その時点で既にロストテクノロジーと化してて、譜線ネウマをもう誰も読めなかったの。
だから、どの記号にどんな役割があったか、グレゴリオ聖歌について触れられてる文献資料とか初期ネウマから考証して復元する必要があるのよ。
そうじゃなきゃ、往時に歌われてた正確なグレゴリオ聖歌の復興なんてできないから当然ね。
これって、すべきことが半分言語学に近いようなかなり学問的な作業なんだけど、困ったことにソレム修道院の譜線ネウマの解釈にはほとんど学術的根拠が無いのよ。
もちろん、根拠が無いからには「確率論として偶然合ってる可能性がゼロじゃない」って論理も成り立つのは事実。
だけど、そんなのあまりにも不合理よね。
だから現在進行形で学者たちが真剣に議論し合ってるんだけど、今カトリック教会が採用してるのはソレム修道院式なの。
それってどうなの?って話でしょ。
例えば、私がソレム修道院式の解釈に疑義を呈するとしたら、そうね……これはクリスチャンの皆さんには特に分かりやすいと思うから、試しに考えてみて頂戴。
皆さんが聖歌を歌うとして、歌詞の中に出てくる神を讃える語彙と、そうじゃない語彙を全く同じ音高や音価で歌いたいかしら。
普通は、前者を強調して歌いたくならない?
そんな風に考えたら、ソレム修道院の「歌詞とは無関係に最初から最後まで同じリズムで歌います」って解釈はちょっと不自然よね。
そういう経緯で、譜線ネウマの記号の意味とかグレゴリオ聖歌のリズムに関しては残念だけど定説がないから、私が採用した説とは違う説が正しい可能性も否定できないわ。 

特に、グレゴリオ聖歌のリズムに関しては本当に難問なの。
前述したけど、そもそも自由リズムだったって主張はかなり有力な説の一つだし、ソレム修道院式の全て同じ音価って解釈が正しいって説も、私は不自然に感じるけど説得力が皆無とまでは言い切れない。
この辺りは教会ラテン語が密接に関わってくるから、言語学の領域に思いきり両足を踏み込んじゃうんだけど、まず、ローマ帝国の公用語だったコイネーと古典ラテン語はどっちもピッチアクセントだったの。
だから、初期ネウマには本来はアクセント記号だったヴィルガとプンクトゥムが転用された、転用しても音符として機能したのよ。
この時期にヴィルガとプンクトゥムが違う働きをしてたことは間違いないの。
だけど、(多分)ゲルマン語派からの影響で、俗ラテン語とか教会ラテン語はピッチアクセントからストレスアクセントに変化したの。
困ったことに、譜線ネウマの成立と教会ラテン語の成立の時期ってわりと重なっちゃってるのよ。
つまり、「教会ラテン語の成立に伴ってグレゴリオ聖歌から長短のリズム分別が失われたのだからソレム式解釈は正しい、元々は区別されていたはずのヴィルガとプンクトゥムが、ほぼ同時期に成立した譜線ネウマでは何故か区別されなくなっていることが根拠だ」みたいな論理も、一概に詭弁とは言い切れないってこと。
もちろん「自由リズムでもソレム式でもなく、本来グレゴリオ聖歌には固有のリズム体系が存在した」って主張も数多いし、そういう方々は主に初期ネウマとラテン語の研究に基づいて、リズムの再構形を様々に提案されてる。
如何かしら、向こう数十年は広範な学術的合意なんて見込めなさそうな混沌ぶりでしょ?
私がネウマの細かな解釈とリズムの問題にこれ以上深くは踏み込めないのは、こういう事情。
……何だか最終的にはかなり煮え切らない結論になっちゃったけど、グレゴリオ聖歌の記譜法である譜線ネウマに関しては以上。

さっきも言ったけど、作曲理論は伝えたから、皆さんはもうグレゴリオ聖歌を書けるはずよ。
ラテン語の作詞能力までは保証できないけど。
それで、教会旋法とネウマの成立過程と機能の話もしたわ。
グレゴリオ聖歌について、もうこれ以上教えることは……残ってないとはとても言えないけど、一区切りとしてはこれくらいで十分じゃないかしら。
だから、今回のグレゴリオ聖歌の講義はこれで終わり。
疑問点とか煮えきらない部分が多く残っちゃった自覚はあるから、もっと深く踏み込みたい方は、質問してくだされば個別に補講するわ。
ってことで、次回からの講義内容は中世西欧音楽、ポリフォニーの萌芽であるオルガヌムよ。
それじゃ、次もまた顔を見せて頂戴。

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