【ドラゴンのエッセイ】生きること

 俺は身体障がい者である。脳性麻痺という病気だ。そしてこの病気の人の寿命は平均して25歳前後といわれている。
 なので俺は高校生になった辺りから、「今日死んでもいいや」と思うようにしている。いや、思えるように生きているといった方が正確かもしれない。
 これは決してネガティブな意味ではない。普通の人より寿命が短いならば、せめて今日一日を後悔しないように生きようという意識だ。今日できることをしっかりやって、楽しかったり充実感があったりすれば「人生今日で終わっても構わない」という気持ちで布団に入ることができる。

 これを読んでいる人の中にも、もしかしたら今現在「生きているのが辛い」とか「死にたい」とか考えている人もいるかもしれない。自分もそういう考えに取り憑かれた時期があるからよく分かる。
「死にたい」と思う時にはもう他の何を考えても無駄だ。それこそ取り憑かれているから。「今日も頑張って生きよう」という考えに方向転換するのはかなり厳しい。そこで、俺がどうやって「死にたい」から逃れたかをここに記しておく。

 俺はまず、生きるということを極限までシンプルに考えた。生きるとは突き詰めれば「呼吸して、寝て起きて、食事をする」。たったこれだけのことである。食事が美味しいと思えるかとか、生活に潤いがあるかとかは究極、関係ない。生きるのに疲れたらまず機械的に、寝る→起きる→腹が減ったら何か食べる→また寝るというルーティーンを繰り返しやってみてほしい。それこそ仕事であるかのように。俺はメンタルが極限まで落ちた時、今でもこのルーティーンをやる。これを俺は「人間を辞める」と呼んでいる。
 そうすると何が起きるかというと、自然に他の欲求が出てくるようになる。例えば外に出たいとか、身体を動かしたいとか。俺のケースだと1週間も続ければ「推しのDVD見たい」とか「Nさんとカラオケ行きたい」といった欲求が出てくる。死にたいモードの時はこういった欲求もないから、推しを見てもテンションが上がらない。人間を辞めることには、テンションが上がる出来事をあえて遠ざけるという意味もある。そうすることで「自分にとっての嬉しい、楽しいがなんだったか」を客観的に見直せるのだ。
 少し話が逸れた。食と睡眠以外の欲が復活してきたならあとは簡単。その願いを叶えるためだけに努力すればいい。俺のケースなら、Nさんに連絡を取ってみるとか。そして最後に「近いこと」を目標に生きていけばいい。「このアニメが最終回を迎えるまでは生きるんだ」とか。俺も冗談ではなく「Nさんとカラオケに行くまでは死ぬわけにいかない」と思って今日も生きている。その先のことはその先で考えよう。

 それを繰り返すと、大きな欲求が出てくるようになる。「Nさんともっと会いたい」とか。その頃にはもう「死にたい」とは思わなくなっているはずだ。
 俺はこうして日々の「死にたい」を乗り越えている。もしNさんと推しのグループがいなかったら、俺はとっくに自殺していただろう。今はNさんと会うこと、推しの作品を追うこと、noteなどのSNSを通じて仲間とコミュニケーションをとることが生き甲斐だ。生き甲斐ができれば、「死にたくない理由」も自然と考えられるようになる。冒頭に示した俺の考えも多少は理解してもらえるかもしれない。

 以上の方法は、誰でも実践できるものではないのかもしれない。でも「こういう考え方もあるのね」程度のよりどころにはなると信じて、書いてみました。

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