【ドラゴンのエッセイ】自分の気持ちと向き合う

 先月、ショックな出来事があった。
 同級生が亡くなったという報告を受けたのだ。
 しかし俺が本当にショックだったのは、「同級生が亡くなった」という事実ではない。それももちろんショックだったけれど、もっと悲しかったことがある。
 それは「同級生が亡くなったという事実を、数ヶ月間知る術がなかった」ということだ。
 仮にタイムラグなくその事実を知れたところで、俺に何ができたわけでもない。その同級生の家すら知らないので、手を合わせに行くこともできない。しかし、気持ちの問題である。
 その子とはクラスが違ったので、接点があまり多くなかった。それでも12年間同級生をやっていれば記憶や印象にはしっかり残っている。彼女は耳が聞こえなかったが、俺の拙い手話にもちゃんと反応してくれた。俺が手話をすると、それがどんな内容でも嬉しそうに笑ってくれた。
 同級生とは二十歳のときに集合して以来、一切接点がない。誰とも連絡すらとっていないし、誰かが連絡を取りたがっているということもおそらくなかったのだろう。しかしそれでも、訃報くらいはリアルタイムで受け取りたかったなと、思った。

 俺にはSNS上でやり取りしている友人が何人かいる。エッセイに幾度となく登場しているNさんをはじめ、みんな大切で離れたくない人たちだ。
 よく、友人にウザがられることがある。理由は分かっている。「心配させてくれ」と言ってしまうからだ。
 例えば体調を崩すことがあったなら、きちんと報告してほしいのだ。以前Nさんがダウンして救急車で運ばれたことをしばらくしてから知った時「ちゃんと言ってくれよ」とちょっとだけキレてしまったことがある。もちろん彼女のことを心配していたのは本当だけど、なんでキレるまでいってしまったのかずっと分からなかった。
 今回の経験でやっと答えが出た。俺はNさんを心配していたと同時に、心配できないこと自体が嫌だったのだと。
 俺たちは基本、メッセージのやりとりしかしていない。年に何度かは会うが、定期的というわけでもない。まして他の仲間たちはメッセージだけで繋がっている。体調不良なんかは言ってくれないと心配すらできないのだ。せっかく友だちになったのに、相手が辛い時に心配すらさせてもらえないのはショックだ。
 同級生の訃報に接した時の感情もこれに近い。同級生が亡くなったと知らずに過ごした数ヶ月の間に、もっと彼女の死を悼みたかったのだ。いくら「気持ちに時間制限はない」とは言ってもやっぱり、もう少し早く知りたかったという気持ちはある。

 もうひとつフォロワーさんによく言うことに、「愚痴ってくれ」というのがある。言われている方からしたらめちゃくちゃ迷惑な話かもと最近気づいたが、これにもしっかりと理由がある。
 Xを始めた頃のことだ。あるフォロワーさんが「誰かに愚痴を聞いてほしい」とメッセージしてきたことがあった。もちろん「俺でよければ」と返信したのだが、「障がい者と健常者で愚痴の共有ができるわけないじゃん!」と怒らせてしまった。それ以降なんとなく気まずくなってしまい、結局その方とはお別れした。
 俺は、他人の愚痴を聞くことが苦ではない。友人が相手ならばむしろ話してくれてありがとうという気持ちになる。それに愚痴なんて、障がいの有無で内容がそんなに変わるだろうか? 俺にだって社会に不満があるし、合わない人だっている。愚痴ってそういうもんじゃないだろうか?
 普段からやり取りしてくれているフォロワーさんにお願いしたい。愚痴ることを悪と捉えないでほしい。少なくとも俺は、愚痴大歓迎である。だってあなたが愚痴ってくれなきゃ、俺だって愚痴れないから。

……とまあ、小説のクライマックスを書き始める前に自分の内面をさらけ出す文章を書いてみた。心配も、愚痴を言い合うことも、全くの他人同士ではできない。俺は悪意を向ける他人は大嫌いだが、友人の危機となれば命をかけて助けたいと思っている。
 限りある時間の中で奇跡的に出会えて心を通わせられたのなら、共有できる感情は多いに越したことはないと、俺は思うのだ。
……久しぶりに熱く語ったら、めちゃくちゃNさんに会いたくなった。
 2人で行く予定のカラオケ楽しみにしながら、少なくともその日までは頑張って生きよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?