【ドラゴンのエッセイ】わがまま

「ドラゴンくんは人に気を遣いすぎだよ。せめて家族や友だちにはもう少しわがまま言った方がいいよ」
 小学生の頃から俺が何度となく、いろんな人に言われてきたことだ。
 確かに俺はかなり他人に気を遣って生きているという自覚がある。多くの友人から「あなたは本音が見えないから怖い」と言われてしまったりもした。挙げ句の果ては母からも「その性格は早急に直せ」と現在進行形で言われている。
 というわけで今回のテーマは「わがまま」だ。

 なぜ自分は、気心知れた人にであってもわがままを言えないのか。その答えはやはり「俺が障がい者だから」というところに着地する。
 俺は保育園の頃、健常者の同級生と一緒に通っていた。しかしやはり健常者と同じ扱いというわけにはいかない。俺には常に専任の先生が付いてくれていた。もちろん同じクラスにそんな扱いの子どもはいない。
 そうなると当然、いじめられる。「何でこいつばっかり先生と遊んでいるんだ」という具合に。もっとも当時の俺は、おやつを取られたり身体の上に乗られたりしても平然と笑っていたらしいが。
 ある程度大きくなって世の中の道理が分かるようになると「いじめは悪いことだけど、あの時俺がいじめられたのは仕方ない」と思うようになっていった。必要なことだったとはいえ、俺は保育園の先生を独り占めしてしまったのだ。軽い罪悪感すらあった。

 特別支援学校に通うようになると、「障がい者がいかに社会から迫害されているか」ということをことあるごとに教えられた。「あなたたちは健常者が収めた税金で生活している」とか、「健常者の生活の邪魔にならないように生きていきなさい」とか。そんなことを定期的に言われているのに、どうしてわがままが言えようか?
 市役所に勤めている卒業生が講話に来てくれた時もそうだった。「障がい者が健常者中心の世界で生きていくコツは、できる限り気配を消すこと。そうして与えられた仕事だけしていれば、少なくとも生きていくことはできる」という言葉は、今でも印象に残っている。当時中学生の俺は「そんな生き方、楽しいのかよ」と思っていたが、大人になってみてそれが真理だと分かった。

 こうして俺は25年間、自分の意思を押し殺して生きてきてしまった。その上自分ではそんな自覚はないから始末が悪い。
 大人になって施設に通うようになると、「個人の意見」というのはさらに蔑ろにされやすくなる。集団生活である以上、優先されるのは個人よりも組織が円滑に回ることだからだ。そしてますます「自分の意思」が表明しづらくなった結果、「トイレに行きたい」ということすら言えなくなっていた。「たとえ漏らしたって、黙ってれば施設に悪影響はないし」。本当にそう思っていた。スタッフが忙しい時間にトイレ介助を要請して「面倒くさいやつだな」と思われたら二度とトイレ介助をしてもらえなくなるかもしれない。普通なら馬鹿げた想像だが、俺が通っていた施設は実際にスタッフが利用者のトイレ介助を拒否していたことがある。そういうところだったのだ。

 施設に通わなくなってから、その考え方は幾分マシになったと思う。しかし今でも「わがままは言えない」という考えは変わっていない。俺の友人たちは「あなたが障がい者かどうかは関係ない」と言ってくれるが、そしてその言葉を信じてはいるが、それでも「わがまま言ったら嫌われちゃう」という考えが頭を離れないのだ。結果、俺が今わがままを言える相手はNさんくらいだ。俺のエッセイをずっと読んでくれている方はご存じかと思うが、初めて2人でカラオケに行った時「ほっぺプニプニさせて?」と言ってみた。これが俺にできる最大限のわがままで、言うか言うまいか1週間悩んだ。いざ言ったときも、ビンタを喰らうくらいの覚悟はしていた。
 こんな俺が適度にわがままを言えるようになる日は来るのか? そもそも適度なわがままってなに? みなさん、教えてください。

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