これが書かずにいられるかシリーズ② 車いすの話

 ずっとイライラを溜め込んでいた理由がこれである。少々長くなるがお付き合いいただきたい。


車いすができるまで

 俺はこの度、車いすを新しく作ることになった。高校の卒業式に間に合うように作り変えて以来だから、7年ぶりになる。この車いすの装飾をどうするかで、モヤモヤが生まれた。ではまずそもそも車いすを作る流れを説明しよう。

 車いすは俺たちの移動に不可欠なものだが、決して安くない。俺が新しく作ろうとしているもので30万程度する。もちろんそんな大金を払える余裕は我が家にはない。そこで補助金制度を利用する。上限が決められていて、その金額以下であれば県がお金を払ってくれるのである。
 最近の物価高で、現在俺が乗っている型よりも安い型でないと補助金の範囲内に収まらなくなってしまった。しかし、それはいい。確かに現在使っている型の方がカッコいいが、大した差ではない。問題はここからだ。

スポークカバー

 車いすのタイヤには自転車と同じように金属(スポークという)が張り巡らされており、大変危険である。車いすは自転車と違って、自分の手でこがなくてはいけないからだ。自分や他人がスポークに指を巻き込まれる等して怪我をしないように、スポークカバーというにつけるカバーが存在する。
 スポークカバーにはさまざまなデザインが存在している。凝ったデザインになるほどお金がかかる。現在では無料でつけられるのはシンプルな半透明のものだけだ。
 しかし俺がつけたかったのはカッコいいデザインのもの。それをつけるためには実費で5000円を支払わなければならない(柄があると装飾品のような扱いになって補助金の対象外になるらしい)。「そんな余裕はない」ということで一旦は無料の半透明カバーにすることで話が決着した。だが、話はここでは終わらない。
 俺の落胆ぶりを見ていたであろう母が「あんたがいいと思うのをつけたらいい」と言ってくれたのである。スポークカバー代5000円もすでに用意してくれていたのだ。もちろん俺は舞い上がった。ここで決着してくれたらどんなによかったことか。

発散しようのないモヤモヤ

 俺は舞い上がった気分のまま眠りについた。だが少し考えて「カッコいいスポークカバーは断念するしかないな」という結論に至る。
 理由は簡単だ。俺は今、家からほぼ出ずに生活しているが、いずれはどこかの施設に通うことになる。これまでのエッセイを読んでいただいた方にはお馴染みだが、施設のスタッフというのは障がいに関する知識が全くと言っていいほどない。それなのに障がい者のお金事情については、やたら詳しいのだ。
 彼らスタッフは、「柄のついているスポークカバーには補助金ではなく実費でお金がかかっている」ということは知っているのである。知っているだけならいいが「お前の家は金持ちなんだな。そんな余計なデザインのために金を出せるんだもんな」という嫌味を言ってくるのだ。俺はこの言葉を直接言われたことはないが(施設には半透明しかつけていったことがないため)、仲間の車いす利用者は毎日のように嫌味を言われていた。俺の幼なじみであるYくん(連載エッセイ「差別と悪意」シリーズ参照)などは「あなたの親はそんな無駄なもの(当時彼のスポークカバーはスティッチ柄だった)も我慢させられないんだね」と言われていた。まったく腹が立つ話だが、スタッフがそういう空気感を作ってしまったら徐々に施設で居場所がなくなっていくのも事実だ。
 さらに、自分で歩ける利用者仲間にも悩みの種がある。
 彼らにとって車いすは「自分は絶対に乗れないカッコいいもの」という認識らしい。その上スポークカバーにカッコいい柄が入っていると、羨ましいと思うようだ。
 思っているだけならいいのだが、彼らはその羨望を行動で示す。
 スポークカバーを舐めるのである。
「舐める」といっても「バカにする」という意味ではない。舌で実際にペロペロと舐めるのだ。それだけならまだましな方で、殴る蹴るなどしてスポークカバーを破壊しようとする人もいる。

 もちろん俺は「カッコいいスポークカバーをつけたい」と今でも思っている。お金の問題も解決しているし、本来なら躊躇する理由はない。
 しかしそのカッコいいスポークカバーのせいで、将来通う施設でスタッフや利用者にいじめられる可能性があるのだ。上記のように危険な場合もあるので、結局「地味なものにしておこう」という結論になった。
 母は言った。「Nさんと出かける時に『それ、カッコいいじゃん』って言ってもらえるかもよ?」
 俺だって男だ。女の子と出かける時くらいは少しでもカッコいいものに乗っていたい。しかし普段の生活でそれを乗り回していたらそれはただの「贅沢」と認識されてしまう。
 俺もしばらく悩んだ。しかし本音では「絶対にカッコいいものの方がいい!」という気持ちは一切変わらなかった。母もそれを分かっているから「気に食わないものに何年も乗ってて嫌じゃないの?」とまで言った。しかし結局、施設での平和を取らないわけにはいかなかった。母も渋々ながら折れた。

 俺はどうしたら良かったのか、今でも分からない。たぶん母も同じだろう。障がい者業界に限らず社会は「みんなと違うもの」に過剰に反応し、迫害しようとする傾向にあると思う。
 確かに社会で生きていくためには、ある程度の妥協や我慢は必要だろう。では今回のケース、やっぱり俺たちが悪いのか? この程度では理不尽とはいわないのだろうか? ずっとモヤモヤしている。
 みなさんのご意見をお聞かせください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?