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LAMP IN TERREN『緑閃光』

LAMP IN TERRENは、”自分探し”とは対極だ。

初期のLAMP IN TERREN、もしくは『BABY STEP』などは、聴く人からすると一見”自分探し”の歌詞のように映るかもしれない。しかし事実は全く逆だ。

まず、LAMP IN TERRENの歌詞は抽象性が非常に高い。固有名詞が数個しか出てこないことはよくあり、それが何をイメージしているか「分かりづらい」「難しい」と感じる人も多いと思う。ただ、そもそもLAMP IN TERRENは現実的な、固定的な「意味」の世界に生きていない。だから、”それが何を意味しているか?”と頭で考えることにはあまり意味がない。

そして、LAMP IN TERRENの歌詞は形容詞もかなり少ない。つまり、完全に”動詞的”な世界に生きている。動詞的な世界ということは、ほぼ「行動」とイコールということだ。人間の言葉の世界は、形容詞や名詞から動詞的な世界に行けば行くほど、行動と近くなる。そして最後は「行動」そのものに行きつく。

『緑閃光』の歌詞を見ていこう。

僕の背中を押したのは 確かに僕だった
何度も見た輝きは この目で見てたから

最初のこの歌詞だが、初っ端からかなり抽象度の高い表現から始まる。そして、一見すると”自分探し的”な、名詞的な世界観が実際にはそうではないことが徐々に分かってくる。

LAMP IN TERRENの歌詞は動詞的なので、そもそもあまり説明する必要を感じないのだが、それは説明した時点で「意味的」「名詞的」になってしまうからでもある。

他の曲も素晴らしいが、『緑閃光』では特に彼らの”中性的”、”意味中立的”、”非道徳的”な表現が際立っている。

どうせ もう 見える物はいつも そう
偶然でしかないだろう
だから もう 足掻く事もないよ
帰ろう 帰ろう 夜になる前に

意味を表現したいのであれば、音楽でなくても良い。歌詞でなくても、芸術でなくても良い。彼らの音楽は常に”音楽である必然性”がある。音楽は最も意味から離れた行為だ。建築も、絵画も芸術ではあるが、音楽よりは意味を持ってしまう。

どこかに落とした気持ち 夕暮れが連れ去ったとしても
いつか同じ様に 何度も 何度でも見つけてみせるよ

見付けられないとしても 紡いでいくしかないだろう
見付けられたとしても 満たされるわけじゃないだろう

最後のこの意味中立的な歌詞は、彼らの真骨頂を示している。それは善悪の価値観や道徳と対極にある。

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