https://shinrigakutamago.blogspot.com/2017/11/blog-post_20.html 私が見ようとしてなかった感情は、誰かに何かを言っても無駄だったことに対する絶望感だ、と気づいた。
いつの間にか自分を語る言葉、自分の思いや感情を見失ってしまった、ということに最近気づいた。 好きや嫌い、痛みや願いは、日々積もっていったはずなのに。朽ちてしまったのか吹き飛ばされてしまったのか、はたまた沈んでいったのかわからないけれど、破片しか見当たらなくなってしまった。 そんな今抱くのは、喪失感よりは、人としての重みのなさへの劣等感。 もっとポジティブな理由で自分を再構築したいんだけどな。
ありとあらゆるものことを見聞きし体験し、そして、たいていのものことを忘れる。 はなから覚える気のない一昨日のご飯のことは当然のごとく忘れるし、覚えていないといけない仕事の依頼の詳細も頻繁に忘れる。 あれだけ忘れないと思っていた悲しい思いも、好きなバンドのライブで思いっ切り楽しんだことも、くだらない笑い話も、景色の美しさも、幸せな瞬間も。全く覚えてないことはないにしても、あのときのようには感じられない。 当たり前といえば当たり前のことではある。 人間の記憶はあいまいで、
Bunkamuraで開催中のロマンティック・ロシア展に行ってきました。 展示は、四季、男女の肖像、子どもたちや人々の日常、街の景色について、といったテーマで構成されていました。 この展示全体を通じて感じたのは、画家たちは、何か特別な場面ではなく、日常を愛しているんだな、ということ。 ある人はそこにある美しさをそのままに描き、 ある人はそこへの愛情が自然と溢れ、 ある人は現実に自分の願望を重ね、 ある人はその場面のふとした瞬間を捉える。 各々の形で、目の前のものを
※久々に人目を意識した文章を書く練習です もし今この世から周りの目がなくなったとしたら、 私の身なりはどう変わるのか考えてみた。 たぶん自分という観測者がいる以上変わらないと思う。 自分が盲目になったとしたら? 周りの人は、どんな服を着ているかとか髪型にしているかとか毛は剃るかとか、色々聞いてみて、 普通に合わせてみたり、逆にド派手になったりするかも。 どっちにしろ、周りに見られることが不安になると思う。 じゃあ、世の中の常識がまるっきり変わってしまったら? (例え
政治家や軍人ではないので、味方はいるならば少なくてもいい。自分が何をしても味方がいてくれる、ということが自分にとって大きな力になる。
指導してくれるお兄さんに弱すぎる。
髪を切ってやっとどういう自分になりたいのかがわかってきた感じがする。
きちんと恋愛するのっていいことだなあって思う。
この週末はいいライブを見ていい美術展を見に行って、これ以上ないくらいの幸せなんですが、誰かこの幸せ感を分かち合ってくれる人がいませんか。
twitterとかそれこそnoteとかある人のフォローをやめる瞬間って、 期待から目が覚めるときだけじゃなくて、 今までの自分には必要だったけど、 これからの自分には必要なくなったとき、っていうのもあるよね。 って、思いながら、フォローを整理したりしています。
理解しあえないことを、お互いに認識している。 このことが適当な関係を築くのにいいのではないか、と最近思う。 私について、理解しようとしてくれている。 そんなとき、相手の中で ”私の考えていることは私から話を聴けば理解できる” ことが前提になっているような気がして、 話すことに緊張する。 そして、話しても伝わらなかったとき、 ほんとはたぶんどちらも悪くないのに、 自分のせいにしたり相手のせいにしたりする。 そんなことに、疲れました。 理解しあえないことを、お互いに認識す
以前にも書いたのですが、Mark Rothkoの作品は私にとって特別です。 一番幸せだなって感じた瞬間 Rothkoの作品は 「ただ絵の具を塗っただけなのに」 「幼稚園児と何が違うの?」 「なんでこれで三億円するの?」 ってなんて言われてるし、その気持ちもわかる。 なんなら、私もある日までは似たようなことを思っていました。 そのある日、 Rothkoが何を考えてどのように描いたかを聞いた。 そんなことを踏まえて絵の前でじっくり見ていると、 自分のこと、Rothkoのこと
伝えたかったことの5%も伝わらなかったのが悲しい
人そのものよりも、その人の作品に関心を持ってしまう傾向がある。 なんでだろうって悩んでる。
私は触媒になりたい。 誰かと何かが、誰かと誰かが、きちんと出会えるように。 そして、そこで何かを生み出せるように。 そんな変化を見守りたい。 こんな風に世界に携わるのもいいよね?