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辻占日誌:死について思うこと。

路上で占いをやってると、不思議な出会いをすることがある。最近まさにそんな感じのことがあって。今夜もそろそろ終わりかな、などと道具を片付けようとしていた時、何回かこちらを見て通り過ぎていってた男性から話しかけられた。「こういうことは占えるか」と聞かれて、可能だったので彼はその日の最後の客になった。

問われた内容はシンプルで、今は宇都宮で仕事をしているが、やめて東京に行こうと思う。東京で仕事は上手くいくだろうか?というような内容だった。特に問題なさそうだったのでその旨を伝えると、話は別の方向に。

「人は死んだらどうなると思うか?」とか「運命はあると思うか」等、占いなどしていると、そういう死生観とか人生観のようなものを聞かれることも多い。その夜は、久しぶりにそんな話を聞かれたので、普段だったら話さないような内容まで話した。知ってることを隠さずに話してみる。

過去と現在と未来という時間軸に沿った流れのようなものは存在しないこと。決まりきった宿命のようなものは存在せず、選択によって変化するものであるから、占いの結果というのは現時点での予測でしかないこと。結果を踏まえて何を選択するのかで未来も過去も変化すること。

死は単なる選択であり、肉体と存在が離れるが、自分という存在は消えるわけではないということ。そしてまた、別の選択をするだけだということ。死生観というよりは単なる事実で、それに宗教的な意味合いは含まないこと。

その男性が読んだ本の話から人類の誕生の起源の話になったので、そもそも人は猿から進化したのではないこと…。私が人に話すには未整理な部分も多くて、拙い話だったけれど。彼には何となく知っているそのままのことを言ってみた。伝わったかどうかはわからないけれど。

これは、宗教の話をしているのではないし、何なら私は無宗教だ。宗教よりももっと原点の話をしている。少し調べたらわかるような、単なる事実だ。事実に思想的意味合いはない。

その彼にはそれがキリスト教的考え方だ、と聞こえたようだったけれど。キリスト教でも何でもない。別にクリスチャンを否定しているのではく。

死生観というものがそもそも人それぞれ違うというのも本来不可思議なことだ。死は別に謎めいたものではない。そこに余分な意味づけをして制限をかけ忌み嫌ってきたのは他ならぬ人間そのものだというのに。

だからそもそも忌み嫌うようなものではないよ、単なる選択だよ、という事実を事実として認識したらいいのかなと思う。


天国は存在するのか?という話でいうなら存在しない。だけど、その人がそう「見る」ということを選択していたら、天国は存在するように見えるし、罰せられるどこか地獄のような場所が存在するように見えるのかも知れない。それは存在しない幽界の中で起こる映画の上映のようなものだから、実際には存在しないんだけども。ありもしない幽界に思いを巡らせるのは終わりにして、穏やかさをもってアストラルへ行けばいいと思う。アストラルは天国か?天国ではない、単に界が違うだけだ。

だから、もしあなたが死に対して恐怖を持っているのなら、死を迎えた後も変わらずあなたの世界は恐怖でしょう、ということ。でもそれって今と何が違うんだろう?今のあなたの世界が絶望なんだとしたら、その絶望を創造しているのは他ならぬあなた自身だよ、だから変えることも可能だよ?生きているこの瞬間から。もっと生き生きと生きてみませんか?せっかく地球に最適な肉体を持ち、ここに存在しているのだから。


…という徒然なるままに書き綴った日誌。


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