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スタンダードロードを私は歩けなかった。

しれっと色んなお店の人や会社の人と打ち合わせが出来るようになった。大人になったと思う。最近、広告やサイトの関係で、企業の人と打ち合わせをしたんだけど、自分の方針を言えるようになって、キチンと話を聞けるようになって、大人になったな、と思う。大企業アレルギーなのは相変わらずだけど。

一時期、割と大きめの企業で働いたことがあるんだけど、その時、社員食堂の人の多さに絶望した。その中で話されるうわべだけの会話にまた絶望した。人との打ち合わせや会議で飛び交う言葉の応酬に萎縮し、ほとんど話の内容が理解出来なかった。

飛び交うマウンティング合戦や、腹の探り合いや、社交辞令の中に何も情報がないことに絶望したんだと思う。発声されている音声情報と実際に放っているエナジーに食い違いがありすぎて、理解出来なかったからかも知れない。

それまであまり大きな会社で働いたことがなかったので、世の中の大半で行われているコミュニケーションというのがコレなんだとしたら、人が「本音で話せる人がいない」と思うのは致し方ないのかも、とも思った。

ここでは私が大事にしているものこそが「嘘」になってしまうんだろう。人の本質的な美しさをいくら伝えたとしても、それよりも明日の成果が昨日より大きいことのほうが価値があるのだ。この現実に於いては。



私が大事にしたいのは、本質的な美しさや、真実や。有り体に言えば「真理」とか言われるものだ。真理って言うと一気に怪しい感じになるのかも知れないけれど、それ以外なんといっていいのか分からないので、便宜上真理と言うよりない。

私から見ると、会社での立ち位置とか力を持つ・持たないとか出世とか競争とかは本当に空虚で、虚像にしか見えないのだけど、その世界で戦って生きる人もいるのだ。それは理解しているし、尊重したい。だけど、「他の道もあるよ」と言いたいし、その道のひとつに私はなりたい。

堂々と脇道を歩く人でありたい。スタンダードロードは私は歩けない。

例えば、家族は私のことをスタンダードロードに戻したくて必死なので、「好きなことは受験合格したらやりなさい」と言われたし、進学すればしたで「好きなことは就職したらやりなさい」と言われた。そして、就職すればしたで「好きなことは結婚したらやりなさい」「好きなことは老後に年金暮らしになったらやりなさい」と、どんどん後回しにしようとしてくる。
仮にそれをやったとして、老後になった頃には、私はもうやりたいことも自分自身も見失って、何が好きなのかも自分が何なのかも忘れてしまうんだろう。そうして「一般的に老後の趣味と言われるもの」を何となくやって老いて死ぬのだ。吐き気がする。謹んで遠慮させていただく。

《安定した会社で働いて結婚して子供産んで子育てに奮闘して家を買って老後になって初めて趣味や好きなことを始める》とか遅すぎる。前半の全部要らないじゃないか。シンプルに《今、趣味や好きなことを始める》じゃダメなの?そんなことないよね?って話で。なんでわざわざ条件付けしたり、間に余計なプロセスを挟み込むんだろう?

スタンダードロードを歩かない者は、彼らにとって「異質」だから、理解出来ないから、理解出来るかたちに押し込もうとしてるだけなんだよね。理解できるかたちの中であれば自由にしていいよ、という。

それは一生を「スタンダードロード」という檻の中で生きていく人の世界だよね。ある種の安心安全を担保に生きる世界。そこが居場所の人がたくさんいるのは知ってるよ。否定もしていない。それはそれで守られた安全な世界だろう。大きな変化もないし進化もないが、生きてはいける。大きな喜びもないし感動もないので、人は退屈になるので刺激として家族やパートナーとの愛憎を繰り返す。葛藤することを刺激として楽しんでいる。それを何というか。社会意識に隷属する《奴隷の世界》って言うんだよ。


人生の喜びは葛藤ではない。

人生の喜びを葛藤することとしている人は案外多い。エンドルフィンの誤用だ。葛藤ってある種の麻薬のようなものなので、実際には何もしていないのに自分の人生が進んでいるような気になってしまうのだ。一生懸命生きているような気になってしまうのだ。

例えば、恋人と浮気相手との間で揺れる葛藤とか。セックスやドラッグに溺れることで自分の人生を見ずに病んだフリして生きていくこととか。そうやって地べたを這いずり回って生きることが必死に生きることで価値があること…ではないわけですよ。それは、感情的思考に飲み込まれすぎだよ。

感情を大事にしすぎると人生は荒波に揉まれて掻っ攫われてしまう。感情はただの感情。波形が大きい波の時ももちろんあるけど、気づいたら終わりだ。それに対して右往左往しなくていいし、なんなら99%は自分のものですらない。バグを拾ってバグを起こしてるようなものだ。バグこと消去したらいい。

だから、エモーションを重要視する必要もない。「感情を感じろ」とかそういうのも必要ない。もちろん抑えつける必要もないけど、冷静に自分の中で何が起きているのか観察しようとする。観察して「揺れているだけだ」と理解できれば終わりだ。


そのように世界を捉えた上で、生きていきたいと思うことの何が悪いんだろう。幸い、私の考えていることはそこまで変なことだとは思われない時代になった。ありがたいことだ。だから、喜んで謳歌させていただく。










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