【コンポーザーズノート】C0301の「へぇ~集」
コンポーザーズノート。今回は C0301 です。
Cをイニシャルに持ち、3月1日生まれ*の作曲家。
今回は フレデリック・ショパン です。
*異説もあります。
過日開催された「ショパン国際ピアノコンクール」では、ショパン作品の魅力や、ショパン演奏の最先端が世界中に生配信されました。
長きにわたって世界中の演奏家、音楽ファンに愛されるショパンの「へぇ~」と思えるようなことを学生が集めてくれたので、ご紹介します。
へぇ~集:C0301
※「ほんとかな~?」と気になったものがあれば、真偽はご自身でチェックしてみてください。
※学生の文章をそのまま載せています。
・ショパンは画家のドラクロワと親交が深く、フランスのノアンで共に作品を制作していた期間があり、この時期のショパンの作品は力強く、情熱的なものが多く残されている。
・ショパンが亡くなる2時間ほど前に、医師がショパンの体の上に乗りかかって「苦しいか」とたずね、「もう何も感じない」とショパンは答えた。
1835年8月にカールスバートにて両親と再会し、その帰路で会った寄宿舎学校時代の友人の妹、マリアに深くとらわれ、別れの際にワルツを贈った。
・1837年2月にインフルエンザに罹り、その後7月にはマリアから別離を告げる手紙が届いた。ショパンから彼女への手紙は全て返送された。
・弟子に対し、練習は短時間で集中して行うよう助言し、プロをめざす生徒にも1日3時間の練習量で良いと言っていた。また、ペダリングには細心の注意を払い、生徒がペダリングをまちがえると大変厳しく注意した。
・大きなホールでの演奏よりも、文人や芸術家が集うサロンでの演奏を好んでいた。
・ポーランドで2度、紙幣に肖像が使用された。
・7歳で公開演奏を行い、モーツァルトやベートーヴェンと比較される。
・ショパンは神経質で被害妄想しがちな一面もあった。ショパンがある女性に「僕の曲ってきれいかな?」と質問したとき、女性が「きれいですよ!」と答えたが、それに対して「しょせん、僕の曲はきれいなだけか…。」とふさぎこんでしまった。
・ショパンの心臓は姉に故国ポーランドに持ち帰られ、コニャック漬けにされて教会の柱に埋め込まれた。
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