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【コンポーザーズノート】B0209の「へぇ~集」

コンポーザーズノート。今回は B0209 です。

Bをイニシャルに持ち、2月9日生まれの作曲家。
今回は アルバン・ベルク です。

ベルクは1885年生まれ、1935年没の作曲家で、音楽史を勉強する中では「新ウィーン学派」の1人として紹介されることがあります。

ルネサンス以降、急速な発達を見せた「調性」は、複数の音を秩序立てて組み合わせるために重要な役割をもっていました。新ウィーン学派を代表するA. シェーンベルクは調性に依存しない「無調」による音楽に到達し、ベルクもまた、シェーンベルクの弟子として無調のスタイルを洗練しましたが、彼は調性を完全には放棄しなかったところが特徴とも言えます。

今夏、東京二期会による『ルル』に、詳しい説明がありますが、ベルクの作品、ぜひチェックしておきたいものです。

そんなベルクの「へぇ~」と思えるようなことを学生が集めてくれたので、ご紹介します。

へぇ~集:B0209

※「ほんとかな~?」と気になったものがあれば、真偽はご自身でチェックしてみてください。
※学生の文章をそのまま載せています。

・喘息を発病。この時23歳だったベルクは「23」という数字を自己の運命の数字と決めた。

・ベルクの兄が弟の作品をシェーンベルクのもとに持ち込んだことから、シェーンベルクとの交友が始まった。

・ギムナジウムの卒業試験に失敗して自殺を図る。

・ナチス・ドイツ政権発足により、師シェーンベルクと共にベルクの音楽も「退廃音楽」のレッテルが貼られ、ドイツでの演奏が不可能になる。

・虫刺されが原因で腫瘍ができ、手術を受けるも敗血症を併発。この年の12月24日に亡くなった。

・未完の『ルル』に対し、未亡人ヘレーネは補筆を禁じた。

・書籍・絵画・礼拝用品を扱う裕福な商人の家で生まれ、家庭内は絵画・文学・音楽等の芸術に親しむ環境で、14歳ごろから独学で歌曲を作曲するようになる。

・1902年、ベルク家の別荘で働いていた女中との私生児の父となる。

・マーラーに心酔しており、交響曲第4番のヴィーン初演の際には、熱狂した仲間とともに楽屋におしかけた。

・1911年、声楽を学んでいたヘレーネ・ナホフスキーと結婚。ヘレーネの母はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の愛人だった。

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