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音楽評論② 『きみしかいない』 たま

必ず寂しくなっちゃう自己肯定

きみしかいない(作詞:知久寿焼 / 作曲:たま)

第二回目の『好きなだけの音楽評論』は、たまさんの『きみしかいない』について、語っていきたいと思う。

たまの曲は、寂しい曲が多いように感じる。また、youtubeやさまざまなブログの反応を見るに、たまの楽曲は幼少の頃の懐かしさを刺激されるようなものが多いようだ。自分は平成生まれなので、なんとなく感覚でしかないものの、確かに昭和の香りをどこか感じるし、特に知久さんの曲は『幼少の頃の寂しさ』を表現してるものが多い気がする。

その寂しさのある意味てっぺんにある音楽が、この『きみしかいない』という曲だ。聴いた人はわかってくれると思うが、聴いたら必ず寂しくなっちゃう、そんな曲である。

この曲を十五文字以内で表現するとしたら『必ず寂しくなっちゃう自己肯定』であろうか。
肯定とはどういうことだろう? 少し長くなるが、説明させていただきたい。

曲の概要

『きみしかいない』はたまの5thシングルであり、3rdアルバム『きゃべつ』と同時に発売された曲だ。カップリングは石川浩司さんの歌う『魚』。実は自分、このカップリングもめちゃくちゃ好きな曲である。(うおうおうお〜)
ところでたまといえば『さよなら人類』を浮かべる方も多いだろう。それしか知らない人もきっと多い。なのでまさか、たまというバンドは、全員が作詞作曲をし、作った人がボーカルまで担当するというまさに『日本のビートルズ』と呼ばれるほどの特殊なバンドであることを知らない人も多いに違いない。みんな、作曲作詞ボーカルをするのである。それもあってアルバムはどれもおもちゃ箱のように多彩な曲たちを楽しむことができる。

好きなだけの音楽評論

Only youという意味じゃない

これは1991年の曲である。たまが昔のバンドだとイメージしていた人は少し驚くかもしれない。サビでオンリーユーと叫ぶ、杉山清貴&オメガトライブさんの『ふたりの夏物語 NEVER ENDING SUMMER』は1985年だし、BOØWYさんの『ONLY YOU』は1987年だ。この曲はそれらよりかなり後であるし、同時代、1991年のオリコンCDシングル年間売上ランキング一覧を見てみると……?

1 Oh!Yeah! /ラブ・ストーリーは突然に 小田和正 
2 SAY YES CHAGE&ASKA 
3 愛は勝つ KAN
4 どんなときも。 槇原敬之
5 はじまりはいつも雨 ASKA 
6 あなたに会えてよかった 小泉今日子
7 LADY NAVIGATION B'z 
8 しゃぼん玉 長渕剛
9 Eyes to me DREAMS COME TRUE
10 ALONE B'z
11 会いたい 沢田知可子
12 サイレント・イヴ 辛島美登里
13 ジュリアン プリンセス・プリンセス
14 歌えなかった・ラヴソング 織田裕二 
15 さよならイエスタデイ TUBE

ミュージック・あみ〜ご
https://amigo.lovepop.jp/yearly/ranking.cgi?year=1991

あんまりにもちょっとラブソング全盛期だ。

こう見ると、改めてたまがどれだけ特殊な状況から出てきたのかがわかる。イカ天というオーディション番組で出てきた彼らは、まさか自分たちの音楽が売れるとは思っていなかったという。万人に受けるような音楽でなかったのはもちろんのこと、正直音楽の時代観も全く当時の雰囲気と合わなかったのだ。というのも、知久さんは「洋楽の影響を感じ始めてからの日本の曲はあまり聴かない」人らしい。1991年の音楽とははっきり言って逆を行っている。

しかし、普通に考えれば、こんな時代に『きみしかいない』というタイトルの曲を出されれば、たまを全く知らない人からしたら、『Only you』という意味の流行りのラブソングだと勘違いしてしまうに違いない。だが、実はこれはラブソングではなく、さらに言えば、『きみ』なんて対象も出てきやしない。これは終始自分の話をしている曲なのだ(と、僕は解釈している)
そんな時代に遅れてるような、はたまた先を行ってるような、ともかくマイペースな感じが、僕にとっては好きでしょうがないのだ。

こどもの視点で考えていく

知久さんの歌詞は(石川さんにも近いことが言えるが)『こどもの観点』が一つのキーワードとなっている。石川さんが様々な少年時代のトラウマや、不自由さ、従うことへの無力さを歌っているとしたら、知久さんはもっと抽象的に、幼少時代に感じた不思議な戸惑い、自分でもわからない自分への気持ち、をぼんやり歌ってるように感じる。

こどもの観点で書かれた歌詞ならば、解釈する際もこどもの視点でできるだけ考えていく。シンプルな発想だが方法論として悪くないように思えるので、それを意識して進めていこう。

最終避難場所とは?

最終避難場所のともだちとキスをして
トカゲの棲む公園をあとにした

きみしかいない

イントロはなく最初から歌が始まり、一番初めに耳に入ってくる単語が『最終避難場所』だ。歌い出しのインパクトで言ったら、これを超えるものはなかなかないと思われる。はて、ところで最終避難場所とはどういうものだろう。

調べなくてもなんとなくわかる気がするが、一応『東京都防災ページ』を読んでみる。

東京都は、東京都震災対策条例に基づき、震災時に拡大する火災から都民の皆様を安全に保護するため、公園・緑地、住宅団地、学校等のオープンスペースを広域的な避難場所として、令和4年7月現在で221か所、区部で指定しています。

避難場所は、指定された避難場所までの避難距離が3km未満となるようにその避難圏域を指定し、避難場所周辺での大規模な市街地火災が発生した場合のふく射熱を考慮した利用可能な空間として、避難計画人口一人当たり1平方メートル以上を確保することを原則としています。

まず、避難場所が公園になるケースは全然普通の話であり、この曲だけの世界観ではないことがわかると思う。そして、避難場所になるポイントは『距離』と『広さ』の二つであるようだ。さらに、『一時集合場所』という項目では

避難場所へ避難する前に、近隣の避難者が一時的に集合して様子を見る場所又は避難者が避難のために一時的に集団を形成する場所で、集合した人々の安全が確保されるスペースを有する学校のグラウンド、近所の公園等をいいます。

と書かれている。つまり、この『一時避難場所』に対する概念が『最終避難場所』であり、最終避難場所とは、集まって移動した先の到達地であるということだ。これは、しばらくはそこを動かない場所だということを意味する。

ここで改めて歌詞を見よう。
この歌詞の主人公は、みんなで最終避難場所に避難したのにもかかわらず、なぜかともだちとキスをしたあと、その場を「あとにする」
最終避難場所であるから、そこを動くことはないはずなのに、いったいどこへ向かうのであろうか? それは図書館だ。

きみのあたまは誰かのいたづらでもうこわれちゃってるから
図書館のガラスを割って這入る

きみしかいない

ここはあまり説明ができない。知久さんの歌詞は、『あたまのふくれたこどもたち』『電車かもしれない』にも出てくるように、抽象的ではあるものの直接的な表現がある。
誰かのいたづらで、あたまがこわれちゃってる。
これも、説明を試みてみれば、あまりにも直接的で、難しい。読者のみなさんにはここは各々察してもらいたいと思う。

また、こちらのTamalabさんのサイト『伝説のバンド「たま」研究所』では、知久さんの歌詞をより深く考察しており、この記事を書く際にも非常に参考にさせていただいた。この部分について、より考えたい人はこちらのサイトも見ていただくことをお勧めする。

その次の、図書館のガラスを割って這入る、はそのまま捉えても良いだろう。『這入る』は『入る』とほとんど同義語であり、『入る』の古語的表現であるらしい。『らんちう』『電柱(でんちう)』など度々知久さんは古語的表現を使うので、別に不思議ではない。

誰もいないにおける『きみ』と『ぼく』

誰もいないから
きみしかいない
誰もいないから
ぼくの言うこときこうね

きみしかいない

誰もいないのは、当たり前のように思う。というのも、ここら辺にいるみんなは『最終避難場所』に集まっているからだ。なので図書館にいるのはまさに、『きみ』だけということになる。

しかし、すると一瞬悩んでしまう。では『きみ』に対して「ぼくの言うこときこうね」と諭す『ぼく』は何者なのだろうか、と。

こう考えてみよう。
この『きみ』も『ぼく』も全員同一人物の話であり、この歌はずっと、自分自身へ話しかけている歌なのだ、と。
だって『きみ』以外、誰もいないのだから、『ぼく』という二人目がいるのは少し変ではないか。

自分へのコンプレックス 

ずぼんにしみついたさばの缶詰の匂いが大嫌いで みんなの待つ公園を爆破した
不自由な身体のきみとあそびながら
地下室で見つけた火薬の本

きみしかいない

ここにおける『きみ』も、自分の話と考える。
ところで、この曲が寂しくてしょうがないと僕が感じるのは、まるで夕焼けが沈むような曲調だけが理由ではない。
この曲が終始、「自分のことが嫌いで仕方ないこと」を歌ってしまっているからだ。

ずぼんの〜大嫌いで、という歌詞はそれを象徴するワンフレーズで、先ほど、こどもの視点で考えることを意識したいと言ったが、この状況をこどもの視点でイメージしてみたらどうだろうか。

ずぼんにしみついたさばの缶詰の匂い、そんなの嫌でしょうがないし、何より周りにバカにされるのが怖い。それでいじめられたり、孤立したり、挙句にはその匂いがつくような、家のことまで悪く言われるかもしれない。どちらにせよ、集団に属していく中で、こどもならこの状況は大嫌いで仕方ないはずなのだ。

そして、次の歌詞で、驚くことに公園を爆破してしまってるが(曲の中では、爆発音を模した音が聞こえる。それはより、この曲に現実味が増してしまう表現となっている)「みんなの待つ」は当たり前である。だって最終避難場所から、『きみ』以外は誰も離れなかったのだから。ともだちもいたはずなのに、なんで爆破してしまったのだろう。

ここで、本当の意味で主人公は「ひとり」になってしまうのだ。

誰もいないから
きみしかいない
誰もいないから
きみがこの世でいちばん

きみしかいない

一番の「誰もいないから きみしかいない」と、二番の「誰もいないから きみしかいない」は同じ歌詞ではあるが、全く意味が違うのである。
図書館に誰もいない、ではない。もうみんな死んじゃって、『きみ』の周りの人は誰もいない、ここ周辺に住む人はもう誰もいない、本当の孤独を意味してるのだ。

自分へのコンプレックス ②

『きみ』が『ぼく』であるなら、「不自由な身体のきみとあそびながら」とはどういうことだろうか。どこで見たコメントかは忘れてしまったが(申し訳ない)見てハッとしてしまったコメントがあった。それは「鏡に映ってる自分に話しかけてる?」と言った感じだったか。要するに『ひとりあそび』だったということで。

その情景を浮かべるとなんとも寂しくなる。
あと、よくよく考えてみれば、自分で自分のことを『あたまがこわれてる』『不自由な身体』と言ったり、のちの歌詞に出てくるが、自分のことを『ぶす』と言ったり、本当に自分を卑下する言葉が多い。

先ほどのさばの缶詰の話だって、結局は、そんな匂いをしてるずぼんを履く自分が嫌でしょうがないということだし、最初のサビで「ぼくの言うこときこうね」と歌っているが、それだって「人のいうことを聞けない自分」へのかなしみを歌っていると捉えられてしまう。

この『きみ』は自分が嫌で仕方ないのだ。
なぜ、そうなったのだろう。それは、周りの人からの言葉が原因なのだろうと思う。しかし、強く言えない『きみ』は、言われてきた悪口を悪口と思わずに、本当にそうなのだと思ってしまった。だからますます自分へのコンプレックスは加速し、そんな心無い『いたづら』が、『きみ』のあたまをこわしてしまったのかもしれないのだ。

その自分の気持ちがわからないままに暴走してしまった結果が、「自分にストレスを与え続ける周りを消す」という、公園の爆破につながったと考えられる。決して故意ではない。だって、爆破してしまうほどに耐えられない周りを、『ともだち』なんて言っているのだから、憎んでたりは決してしてないのだ。

地下室で見つけた火薬の本

公園を爆破した『きみ』
しかし、それは簡単にできることではない。爆弾にしても何しても、最終避難場所になるような『広さ』の公園を爆破するほどの、大きな爆発を起こすものなんて、何も知らない人ができるはずがない。

その技術をどこで『きみ』は手に入れたのだろう? その疑問はすぐに答えてくれている。地下室で見つけた火薬の本、である。

おそらく、この地下室とは、本であるし、図書館の地下室であると考えられる。
しかしそう考えると時系列に矛盾が生まれる。歌詞の流れでは、火薬の本を見つけたのは「公園を爆破したあと」だ。だが火薬の本を既に見つけてないと爆破させる技術なんか手に入ってないはずだし、ここだけ時間が倒置されている? と少し悩んでしまう。

そこで思い切った仮説を唱えてみる。
ここまで全部、『きみ』の願望を反映した「ひとりあそび」の描写だった、という説だ。

そもそもなぜ避難してるのか?

まさに今更であるが、そもそもなぜみんなは避難してるのだろう。
それを探るためのキーワードが『さばの缶詰』だと僕は考える。
缶詰が飛躍的に日本で広がったのは、第一次世界大戦後で、特に関東大震災の影響が大きかったという。仮にその頃の時代で考えてみると、みんなが避難したのは戦争か、震災か、どちらかの理由である可能性が高く、火薬と言った物騒な言葉が出てくるので、今回は「戦争による避難」として話を進めてみることにする。

こんな話を想定してみた。

何か避難しなければいけないような攻撃に街が晒され、みんなが『最終避難場所』に集まる。しかし、周りに馴染めない『きみ』または『ぼく』は、公園を抜け出してしまい、いつも過ごしてる図書館へと向かっていった。だけど、今日は誰もいないから図書館は開いてなくて、仕方ないからガラスを割って中に這入る。
その図書館の地下室で、何回も読んでいた『火薬の本』それを読んで、『きみ』はなんとなく「全てが爆発して消えちゃえばいいのに」なんて思ってた。もちろん、なんとなく嫌な気持ちがそう思わせるだけで、誰を具体的に恨んではいないし、本当に爆破なんてさせようなんてことは思ってなかった。そもそも、火薬の本を読んだだけで、公園を爆破などできるはずがないのだから。

このような話だ。そう、実際に『きみ』は公園を爆破してなかった、そんな仮説である。

しかし今までの話を全否定するわけではない。

『きみ』自体は本当に爆破したと思ってる、こう考えたらどうだろう? 時系列の倒置もそのように考えたら説明できるかもしれない。

『きみ』は公園を爆破したと思い込んでる

公園を爆破したあとに、『きみ』とあそびながら見つける火薬の本。
この時系列の流れは、ナレーション的視点ではなく、この物語の中心にいる『きみ』からの視点で考えてみると実は矛盾してない。

公園から離れて、図書館に入り、ひとりあそびをしていると、そこでいつも読んでいた火薬の本を見つけた。

これと同時に、公園の爆破音が耳に入ってきたらどうだろうか。遠くにいるから、爆破音は少し小さい。それは、まさに僕らリスナーが聴いてる音源と同じような感じだ。聴いてみればわかるが、その爆破音は目の前でというより、遠くから聞こえてくるようにミックスされている。

ずっと火薬の本を読みながら、全てが爆破することを無意識に願っていた『きみ』が、本当に爆発音を聞いたら、「自分が公園を爆破してみんなを消してしまったんだ」と思い込んでしまったとしても不思議ではない。妄想が現実になってしまったのだと。

その爆破は、実は最終避難場所へ落とされた、何かしらの攻撃で、『きみ』は全く関係なかったとしても、自分が嫌でしょうがない『きみ』にとっては、その事実はさらに自分を追い詰めることになる。誰もいなくなってほしい、と思っていたけれど、それが本当になってしまったとき、『きみ』は苦しくなってしまうのである。

コンプレックスと自己愛の併存

二番は、「誰もいないから きみがこの世でいちばん」と言って、間奏に入る。この間奏が本当に寂しく、なんだか変な緊張感を与えるのだが、同時に僕らリスナーは思う。「この世でいちばん……」何なのだろう? と。何がいちばんなのだろうか、と。その答えは間奏終わりにくる。

誰もいないから
きみしかいない
誰もいないから
きみがこの世でいちばんぶす

きみしかいない

かなり衝撃な歌詞である。ここで、『ぶす』なんて言い方を不快なんて思わないでほしい。この歌はそういうことではない。この言葉は、本当の重みを秘めている。というのも、「誰かに対して」ではなく、『きみ』=『ぼく』という考えなら、「自分自身に」言っているからだ。
それに、これは単純な悪口ではない。誰もいないからいちばんぶすと言っているのだ。

もう探しても誰もいないから、比較する相手がいないから、いちばんぶすだと言ってるのである。これは、姿形のことなのか、精神面のことなのかはわからない。でも、この『きみ』のことだから、コンプレックスによる感情からこの言葉を発してるのは違いない。

それと、同時に、この『きみ』は「自分を嫌いになりきれない」部分もあることがこの歌詞からわかる。

だって誰もいないからいちばんぶすならば、誰もいないからいちばんきれい、とも言えるではないか。自分が嫌で仕方ないけれど、それでも自分を気にしてしまうのは、自分を本当は愛したいからだ。そう、この歌は、『自己愛』についても歌っていたのだ。

こんな自分だけど、こんな自分を愛したい。
みんなを爆破してしまった(と思い込んでる)『きみ』は最後にこう歌う。

誰もいないから
しょうがないよ
誰もいないから
ぼくらがいるのはずるいね

きみしかいない

みんなを死なせてしまった自分が、ここにいるのは「ずるい」と表現されている。
でも、「いちばんぶす」であることも「ずるいから消える」ことも、しょうがないと言うくらいには納得してない。
これが、コンプレックスを抱えながらも、自分を愛したい、肯定したい、そんな気持ちも持っている。

併存している『きみ』の心の中の気持ちなのだ。

最後の歌詞を歌い終わると、この曲はあっという間にフェードアウト(音量が徐々に小さくなって終わっていく)していく。普通はもうちょっと引き延ばすが、本当にあっという間にこの曲は終わる。余韻を残さない。それこそが、この『きみ』の決断をより明確にしてるように感じる。みんなと一緒に終わろうとしている決断を。

総評

以上がたまさんの『きみしかいない』の評論である。
また、文章が長くなってしまったこと、考察をしっかりするために更新が遅れてしまったこと、をここで謝罪したい。

「なっちゃう」という言葉には、「そうなることを別に望んでたわけではないが、そうなってしまった」というニュアンスがあるように思える。
『らんちう』という曲にも「だぁれも知らなくなっちゃった」という歌詞がある。『きみしかいない』にも「もうこわれちゃってるから」という歌詞がある。
知久さんは、「なっちゃう」という言葉をよく使っている。この言葉は、もう戻らない寂しさをすごく感じてしまう。

だから、この「コンプレックスと自己愛の間で、もう戻れない状況になってしまい、自分をずるいと歌う」この曲を、僕は『必ず寂しくなっちゃう自己肯定』とまとめたい。

自己肯定をしてくれる音楽。にもかかわらず、どうしても、寂しくなってしまう、これが『きみしかいない』という曲の核心だと僕は思うのだ。

序盤で述べたように、1991年はラブソング全盛期だ。その中でも『きみしかいない』は特に異彩を放っている。もちろん、ラブソングにも名曲は山ほどあるし、1991年のヒットソングには僕の大好きな曲も多い。しかし、この曲はなによりも特別なのだ。どの当時の『Only you』とも違う部分が、一つあったのである。

『きみしかいない』が「きみしか見えない」という意味ではなく、本当にそのままの意味で、ポツリと一人立っている、「きみしかいない」であった。だから自分のことしか考えられないし、自分を嫌うも愛すも自分にしかできない。

そう、『君』に対して愛を届けることで、前向きになれる曲がたくさんあったこんな時代に、『きみ』という『ぼく』に向けて、『自己愛』についてずっと歌っていたのだ、たまは。

それが僕には特別に感じる。他の曲と一線を画すように感じる。この『きみしかいない』が一番良い曲であるかは人次第であるが、一番変わっていて、一番特別であることは僕は確信している。

今では「自分への愛」に対して歌われることも珍しくない、むしろ90年代のような、堂々としたラブソングは少し照れてしまうかもしれない。しかし、自分に対しての『愛』であり『コンプレックス 』をここまで歌い切った歌が、1991年にもあったことを、若い人にも知ってもらいたい。

ところで冒頭に貼った動画はPVであるが、曲の雰囲気にとても合っているし、たまそれぞれの魅力が本当に伝わってくるので、僕はとても好きなPVだ。

感想や記事の修正点、何か自分の「私はこう思うよー!」という解釈があればぜひコメントしていただけると嬉しいです。よければ「スキ」、「フォロー」もしていただけると嬉しいです。ここまで読んでいただきありがとうございました。

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