見出し画像

どこを目指したいのか分からない話

就職活動や転職活動など、人生の岐路といえるような場面では、自分が今持っているものを使って、なるべく自分が行きたい場所に近づけるような道を選ぶことが有効なのだと思う。

けれど、自分が行きたい場所が分からなければ、自分が持っているもので明確に目指せる場所もない。

なぜなら、いつでも私の選択には他者の評価を介在してきたから。

子供の頃は〇〇になりたかった、みんな〇〇が好きだから。

きっと××になるのが良い、だってこれまで××を褒めてもらったから。

△△になるべきだ、なぜなら△△は社会的に価値があるから。

常に、”誰がこう評価しているから、これが良い”というように、誰でもない誰かの価値基準で、全てを選んでしまっている気がする。

誰かの評価は、その時聞こえてくる声によって変わってくる。年齢によっても、立場によっても、状況によっても。

その中で正解を探すことに躍起になると、結局、何を選んだら良いのか分からなくなる。

だから、なるべく大きな声、多く聞こえてくる声を頼りに進んでしまう。

そうすると、自分で道を選んできたはずなのに、なぜか多くの人が通っている広い道に出ている。

きっと、”何か”がうまくいくには、その道で合っているのだと思う。だって、だいたい皆んな、その道で”何か”にたどり着けているから。けれど、その”何か”は本当に自分が求めていたものなのだろうか。

本当は広い道ではなく、細い道を歩みたかったのかもしれない。他の人とは違う素敵な場所に着くかもしれないし、やっぱり広い道にすれば良かったと思う場所に着くかも知れない。

でも、細い道を選び続けるには、大きい声を気にしない心が必要だし、持っているものが特別でないといけない。

だから、だいたいの人は皆んな、広い道を選び、細い道を選んでいたら手に入れたかも知れない”何か”を忘れる。

細い道を選んで良かった、広い道を選んで良かった。自分で選んだ道を正解にしていくことが人生だとよく言う。

でも、他者が介在した選択の先に待っているのは、自分が選んだ正解になるのだろうか。
そもそも、どこからどこまでを自分で選べているのだろうか。

今選べる道の中から、1番良い道を選ぶ。
“1番良い”の価値基準は自分が決めたものなのだろうか。

SNSで他の人の道が見えやすくなってから、俯瞰したように、いろんな道が見えてきている。可か不可かは別として、こうやって行くんだよ、と道を示してくれる人も多くいる。

その中で、これが自分にとっての絶対的な正解、と言える人はいるのだろうか。
その正解は誰が、いつ決めるのだろうか。

私は今、自分・他者、誰から正解と認められたいのだろうか。

もう少し時間が経てば、選べる道も少なくなっていく。その時にはもう選べない”あのときのあの道”が正解だったのかも知れない。そう後悔することが無いように、できることならば、したい。

きっと、こんな事を思っていたことも忘れてしまうかも知れない。むしろ忘れていた方が、あったかもしれない”何か”に期待することが無いから幸せなのかもしれない。または、あったかもしれない”何か”に思いを馳せるのも幸せなのかもしれない。

少なくとも、今やれる事をやらなかったら後悔することは、何となく分かる。
だから、考える事をやめずに考え続けたい。

道を迷って考えた時間は、間違えなく自分だけのものだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?