普通じゃないことは免罪符じゃない

普通ってなんだ、とはよく話される議題だと思います。

多数派の意見だったり、その人の中の偏見の寄せ集めだと言ったり、様々な普通があります。
そんな「普通」を話し合っていく中で、発達障害だったり、ADHDだったり、その人の持っている性質についての話は絶対に上がると言っても過言ではないでしょう。

先日お邪魔させていただいた哲学カフェでも、そのような話題が上がりました。後半の方になって一気にその辺りが盛り上がって来た時には、やっぱりみんな生きづらさを感じているんだなぁとしみじみ感じました。
私は「普通」からかけ離れようと努力して生きている人間なので、「普通」という理想に縛られながら生きるのはどんなに辛いことなのかよくわかりません。むしろ「普通」であることが辛いです。変わってるねって言われるとちょっぴり嬉しくなるタイプ。これは本当。
もちろん、自分以外の考え方を理解しようとはしていますし、受け入れようともしていますが、他人の考えを完璧に理解することは絶対不可能なので、ある程度は諦めています。

だから、あえて言わせてください。

普通じゃないことは
人を傷つけていい理由にはなりません。

「私、人の気持ちがわからないんです」だったり、「喋るのが苦手です」ということは、事前に言ってもらって、わかってはいても、会話していて傷つくことがあります。
そういう時、「そこまで言ったらさすがに傷つくよ」とは言えないんです。それを言うことで、相手が傷つくんじゃないかな、また生きづらくなるんじゃないかな、って気を使ってると、絶対にダメだって強く言えない。特に毎日そうやってストレスを抱えて生きているなら、私の前ではせめて....ってなってしまうんです。

もちろん、いわゆる「普通」の人でも、人を傷つけるのは良くないですし、そういう人の前でも「傷つきました」って強く言えません。でも、彼らは私じゃない人から責められやすい。あの人は口が悪いというある種の罪のようなものを背負うことになります。人を傷つけるのに理由がないからです。

でも、そうやって人を傷つけてしまうんですという予防線のようなものを貼られると、なんとなく責めにくいです。「こういう性質を持ってるから許して」っていう前ふりに聞こえます。
だからって人を傷つけたらダメだし、でも言えないし、どうしたらいいんだ....

うまくまとまらないけれど、先日すごくもやもやしたことでした。

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