大人になるとは諦めること。

今年、私は二十歳になったらしい。
正直もっと大人だと思ってたし、もっと自分に自信も持っているものだと思っていた。

これから先いきなり逆上がりができるように、突然何かができるみたいな成長をすることもないんだろうし、はたちになって嬉しいことといえばせいぜいお酒が合法的にのめることくらいしか思い浮かばない。親戚はだれもかれも待ちに待ったかのように私に酒を飲ませて、二十代はあっという間だぞ〜とかいってくるし。

二十歳といってもただなんとなく節目の年だなあくらいに思いたいけど、私の中では大人になる年というイメージが強かった。
そして、私の中で大人になることは「子供を育てること」だった。

私は子供とどう接していいかわからなかったから苦手だったし、だからこそ積極的に子供とは関わってこなかった。でも、子供大好きです!と嘘をついて受かったバイトで幼稚園生や小学生に英語を教えていく中で、自分が思っていたより子供って宇宙人じゃないと思ったし、子供は純粋に気になったことをすぐ「どうして?」と正直に聞いてくることが多かった。逆に私はそれができなくなっていたんだと子供に気付かされて、みんなすげえな!そのまま大人になってくれよ!!と感動していた。

おぼろげながら子供の輪郭が掴めてきて、恋愛して私って将来子供とか産むのかなと考えたり、書店員の花田菜々子がシングルファーザーと体験した日々について書いた本をたまたま読んだりして、私はますます親になり、子供を育てることについて考えるようになった。

だけど今の自分ではまだ、自分で自分の機嫌をとったり、やりたいことをするので精一杯で、私の定義での大人になることなどあるのだろうかと軽く絶望している。でも最果タヒの本を読んでいたら彼女も同じく、大人になることの無理ゲー感を訴えていた。彼女によれば大人になることは消極的である。精神力や体力が衰えた結果、人にツっこんで深く付き合おうとか、脂っこい食べ物をいっぱい食べることができなくなって仕方なく子供的な部分が抑えられて大人になるのだ。(意訳)

紆余曲折を経て、私が最近行き着いた大人になることの定義とは「諦めること」である。

大人になったら、社会に出ていろんな人と人付き合いをする、社会人として労働をする。そのなかで諦める大人として生きるとは、他人と自分の距離を埋めるためにその人と大声で話すのではなく、他人と自分の距離を諦めて糸電話をする。そして、人生の意義として仕事をするのではなく、人生の意義は別のところにおいてそのために必要なアイテムとなるお金を得るために働くのだ。

そう考えたら母や友達と意見が合わなくても、自分の意見をわかってもらえるまで話すのではなくて、他人なのだから考え方は違くて当たり前だなと思えるようになった。そして、一生自分が好きでいられるものに携われる仕事に就かなければいけないと思って、わずかな希望のために雲を掴むような努力をしていたけど、仕事が人生の意義や価値観そのものにならなくても全然いいなと思えるようになった。

諦めることが少しずつわかっていくと、生きている感覚も少し変わったと思う。今まではボートに乗って水流に流されながら周りの魚や水草が気になって身を乗り出して眺めたり触ったりしてる感覚だった。でも最近は水の流れに身をまかせながらもボートはゆらゆらと揺れ動かないし、オールはないけれどゆっくりと自分が行きたい方向へ流れていくことができるような気がしている。

諦めるとはこんなにも抽象的で、ただ頑張っていないということだけなのかもしれない。だけど、私にとってはこれが求めてきたことで、諦めることがわかってくればくるほど心地よい。

これからもいろんなことを少しずつ諦めて、自分をそのままに握り締めて、ゆっくり大人になって行けたらいいなと成人式を前に私は思う。


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