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手紙の効用

 夜、友人と久しぶりに話した。
 最後の話題は手紙と、日記、書かれた文章について。友人は死後、日記を誰にも読まれずに燃やして欲しいらしい。その一方で文通(より抑制された交換日記のようなもの)を勧めもしてくれた。

 寝て起きて仕事をし、ご飯を食べて、ふと結婚式の手紙を思い出す。
 結婚式のラスト(といってもライスシャワーやカンカン・カーまではいかず)のパブリック=つまりそうだと私が思う・イメージは、やはり婚姻当事者からかつての保護者(多くは親なるもの)への感謝の手紙と花束贈呈だろう。改めて考えると不思議な行為だと思う。自らの感情と過去の記憶をディジタルな文字に変換し、手紙という形に引き剥がし、そしてそれを読み上げるのだから。これはスピーチとはまた違った気持ちの伝え方だろう。手紙、というメディアへの変換が一枚噛むことによって伝えやすく、更に言えば受け入れやすくなっているのかもしれない。
 例えば両親に手紙を書くとして、両親のことは『お父さん、お母さん』(あるいはそれに準ずる呼称)と書き、そして読み上げるだろうが、これは普段両親に呼びかける際の「お父さん、お母さん」と違った響きを持つだろう。『お父さん、お母さん』は手紙の振る舞いであり、呼びかけというよりも手紙として書かれた文字を読み上げることになるだろう。手紙、という形態を介すことで、その発話は即時の応答を期待しないもの、として扱われるのではないだろうか。これがコミュニケーションのお約束(言外のルール、文脈、code)によって変化する「振る舞い」である。
 手紙が読み上げられる時点よりも過去に書かれているのも重要かもしれない。読み上げている本人は薄れ、「宛先」はこれまでのその人(つまり子ども)を朗読者に見るかもしれない。そしてこの朗読者は自らの子どもだということに新鮮な驚きを持って気付くことになる。

 ついこないだ観た『シン・仮面ライダー』の手紙の描写は面白かった。更に言えば、本郷猛(池松壮亮)はずっと手紙を出しているような喋り方をするし、十文字隼人(柄本佑)はそれを読んでデカい独り言を言ってる。
手紙は宛先、受け手、読み手がいないと存在しない。過去であり固く閉じていながらにして現在に開かれた存在だ。

: 感謝の手紙は宛先からすれば(時には読み手からしても)嬉しいものだろうし、手紙なのは記念にもなるし当日は婚姻当事者にスピーチするような余裕がないからだと思う。思うけど。

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