隠喩としてのリボ払い
『花束みたいな恋をした』を観るために、今年に入って初めて新宿のTOHOシネマズまで出かけた。在りし日の8割程度の混み具合にややたじろいだ。久しぶりの人混みに圧倒されてしまった。
上映前に「紙兎ロペ」を観るのも久しぶりのことである。あのアニメを観ると、文化祭のステージで同級生が演ずるコントを観ているかのように、いたたまれない気持ちになる。ウサギとリスのぬるい会話に不快感を覚えるのは、客として低く見積もられているように感じてしまうからであろう。
スマートかつクレバーな人たちがウィットに富んだ会話に興じている様子を見ると、私もあんなふうに会話してみたいと思う。けれども、当方は口下手で、口を開けばしどろもどろになってしまう。ウィットに富んだ会話など夢想に過ぎず、まずもって会話自体がままらない。
久しぶりに「紙兎ロペ」を観て思ったことは、この程度の会話であれば私であっても参加できそうということだった。ペラペラで奥行きのない会話ができる場があったら良いかもしれないと思った。自分を大きく見せたりする必要のない弛緩しきったお喋りの場・・・・。
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