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もりもり作業日誌、あるいは「本当にやりたいこと」について

三連休。怒涛の文章書き書き月間を乗り切り、久しぶりに締め切りのない休日を迎えた。ライブもなければレコーディングもない。本当はここで一息つくべきなのだろうが落ち着かず居ても立っても居られない。何かにせっつかれている状況のほうがあれこれ考えずに済むから楽といえば楽だ。

創造的な取り組みをしていれば部屋は自ずと散らかるものである、とさる高名な作家が言っていた。この間、創造的でいられたかどうかは成果物から判断してもらうほかないのだが、部屋が汚いことだけは確かである。汚部屋をどうにかし、不要なものは処分し、さらには衣替えにまで着手しようと考えた。しかし、トリプルファイヤーがらみの作業をしていたら興に乗ってしまい、結局掃除も衣替えも断捨離もできずに終わってしまった。

精神が袋小路に入り込んだときは部屋の掃除をすると良い。森博嗣も春日武彦もそんなアドバイスを読者に与えている。しかしなぜ掃除すると良いのだろうか。ひとつには、部屋がきれいになれば心もすっきりして気持ちがリフレッシュされるから、という理由が挙げられる。けれども、そんなのは誰もが知るところであって、人から改めて言われるまでもなかろう。あえてそう言うからには、もっともらしい理由がありそうだ。

精神がどん詰まりの状態にあるとき、私たちは、自分の心が繊細になっているかのように捉えてしまう。けれどもそれはお門違いで、むしろ世界の捉え方が雑になり、思考が堂々巡りをしているからこそ、膠着状態に陥るのである。そうしたときに部屋の掃除をすると、ディティールに意識が向かうことで、心が繊細さを取り戻すというわけだ。斎藤環の「観念は堂々巡りに陥りがちですが、行為には堂々巡りはありません」という言葉も参考になるだろう。要するに、頭でっかちになっていると自覚があるときは、何かしらの行為を通じて現実への手応えを回復させましょう、という話である。

今現在の精神状態がどうかといえば、まだ限界には達しておらず、心にはゆとりが残っている。世界の捉え方もそれほど雑ではない。そうであれば無理をして部屋の掃除をする必要もなかろう。むしろ心が限界に達したときのためのよすがとしてとっておきたい。そういうわけで部屋の掃除は先延ばしにした。たしか「壊れていないものを直すな」という英語のことわざもあったはずだ。そもそもいくら部屋が散らかっていようがあまり気にならない性格なのだから、掃除しなきゃと考えるほうが不自然だ。無理はするものではない。

余暇を使って家で一人もりもりバンドのデモを作ったり、もりもり楽器の練習したり、もりもり文章を書いたりしていると、興ずべき趣味もなければ、駆けつけるべきパーティーもなければ、会うべき友人もいない寂しい奴っぽくなってしまう、というような問題を抱えている。

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