見出し画像

遺恨

君は根に持つタイプだよね、という指摘を受けた。根に持つタイプ。漢字をひらけば、ねにもつタイプ。岸本佐知子のエッセイだ。むろん「岸本佐知子さんみたいでなんだか素敵だね」と言いたかったわけではなかろう。どちらかといえば、その執念深い性格に攻撃性が伴ったとき、ある種の面倒くささを感じないこともない、と告げられた格好である。しかし「鳥ちゃんは記憶力がいいよね。すごいよね」と褒めてくれたのだと解釈し直して記憶の墓場に打ちやっておいた。

たしかに執念深い性格だという自覚はある。誰かの不快な言動がいつまでも忘れられず、ことあるごとに蒸し返し、相手を責め立てる。そういうところがないとは否定できない。しかし他方で、もはや忘れかけているものも無限に存在する。小中高時代の記憶を探ってみても即座に思い出せない。少し時間をかけて、高校生の頃にサッカー部のじゅん君から「真道の走り方って変じゃん」と言われてショックを受けたことを思い出してみたが、今にしてみれば取るに足りない一言だ。走り方がおかしかろうがもはやどうでも良い。じゅん君に対する悪感情も一切湧かない。高校を卒業して以来、一度もじゅん君と会っていないし、きっとこれからの人生で顔を合わせる機会もないだろう。

しかしどういう条件で根に持つ性格が発揮されたりされなかったりするのか。これを考えるうえで、じゅん君の発言とそれに関する現時点での評価は示唆的だ。おそらく一度相手との関係が絶たれてしまえば、恨み辛みのような悪感情は簡単に揮発してしまうものなのだろう。関係が清算されたことで、過去の出来事のみが記憶として定着し、記憶にまつわる感情は雲散霧消してしまうのだ。

「感情に関連した記憶」と「記憶に関連した感情」は、まったく異なるものだ。過去の忌々しい出来事を思い出してイライラする「思い出し怒り」というものがある。怒りの感情が蘇ってくるのではない。ある出来事を思い出して怒りが湧いてくるのだ。それが「思い出し怒り」だ。怒りの対象は過去の出来事だが、怒りの感情はまさにその瞬間に発生するものだといえる。

根に持つタイプの人間に対して、過去に抱いた悪感情をいつまでも反芻する困った奴といった印象を持つ向きがあるかもしれない。夜な夜な腕立てしたり、懸垂したり、ガスコンロで拳を炙るなどして、憤怒の炎に薪をくべ続ける様子が容易にイメージできる。しかし、当事者としてそうしたイメージは正確さに欠けると言わざるを得ない。

当事者としてのイメージはこうだ。何かしらがトリガーとなって記憶が呼び出され、それに付随する形で悪感情が新たに生成される。つまり、毎回毎回、生まれたてほやほやのまっさらな怒りが全身を貫いているのである。他人には過去を起点に考えているように見えているかもしれないが、当事者はあくまで現在を起点に考えている。だから、よくある「なんでそのとき言わないんだよ」という指摘はまったくの的外れだ。憤怒の炎はその瞬間に燃えあがっているのだ。

ここから先は

3,976字
noteの仕様で自動更新(毎月1日)になっています。面白いと思っていただけたのならご継続いただけると幸いです。

日記と夢日記

¥500 / 月

少なくとも月に4本は更新しています。音楽、映画、ドラマ、本の感想、バンド活動のこと、身の回りのこと、考えたことなど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?