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10日目 - やっと検事調べが始まった。

(前回の記事)

 朝食後、運動の時間を待っていると、「検事調べ」があるという事で呼び出された。二日ぶりに手錠、腰縄を付ける。これらをつけるという事は、留置場の外に出られるという事でもあり、妙な嬉しさを感じてしまう。しかも、この日の取り調べは検察庁で行われるので、警察署の外に出られるのである。
 車から見る、10日ぶりの外の世界が実に眩しい。まだ、朝の9時前なので、通勤の学生やサラリーマンが眩しい。心情的にも眩しいのだが、ずっと屋内で過ごしているので、実際にも眩しい。
 随行の担当巡査からタバコをもらう。刑事調べと違って、検事調べでは禁煙で、飲物も出ないのがほとんどである由。ただこれは、べつだん規則で禁煙な訳ではなく、どうも「検事」という人、禁煙家が多いせいのようであった。実際には、ごく稀だが、「俺の担当検事は煙草喫えたぜー」という者もいた。

 今回は待たされる事もなく、すぐに部屋へと通された。ごく普通の事務室である。大きめのデスクに、本棚。おそらくは法律書の類いであろう、厚手の本が並んでいる。これも刑事調べの時とは異なり、検事は部屋に入って奥、窓を背に座っている。右手にもう一人、補佐官もいる。僕は手錠を外され、入り口を背に座らされた。ドア際に、随行の巡査も座る。

 検事は、前回の勾留手続きの時とは違う男であった。本人の説明によると、前回の時は出張していたので、代わりの検事であったとの事。今度の検事、今後、僕の担当になる検事は、俳優の西村雅彦の線を少し細くしたような男であった。声はもとより、話し方、身振りまでよく似ている。少し、いや、かなりキザな芝居がかった調子で話すところなど、そっくりである。もっとも、実際に会った事もあるのだが、西村雅彦本人は、シャイでおとなしい感じの人であったが。

 刑事調べでは、主として具体的な事実関係や、証拠品の確認等が行われた。
 検事調べでは、それらの事実をふまえた上で、さらに突っ込んだ取調べが行われた。僕の場合だと、「そもそも、大麻を喫うようになったきっかけ」や「今回の購入動機」「喫うとどうなるのか」等を、細々と聞かれた。具体的な事実関係よりも、心情面での聴取が多かった。
 さらに「銘柄による効き方の違い」だのも聞かれたが、僕は年期の割にはあまりそのような「専門知識」は持ち合わせておらず、今ひとつはかばかしい返答は出来なかった。

 取り調べの最後に検事から、「私はこれまで何人も、大麻取締法の容疑者を取り調べましたが、いずれも、覚醒剤とは違って、ごく普通の人ばかりでした。あなたも同様です。実際、大麻で捕まったあなたに聞きたいのですが、大麻は、体に悪いと思いますか? もしかしたら、合法化された方がよいとは思いませんか?」と、聞かれる。何かの引っかけか? とも思ったのだが、この時は正直に、「まったく体に悪いとは思えません。合法化すべきだと思います」と、答えておいた。

 一通り聴取を終えると、ここでもそれを調書にワープロ打ちする。しかし、刑事調べの時とは異なり、ちゃあんと横に補佐官がおり、検事が身ぶり手ぶりも併せて、前述のごとくキザな口調で口述していくのを、どんどんタイプしていく。さすがにこちらは目にもとまらぬ速打ちで、感心する。口述し終えた調書は、刑事調べの時と同様、プリントアウト後、一度読んで聞かせられ、内容に異議の無い場合は署名、指印する。刑事調べの際は朱肉で、右手の人差指の指印を押したのだが、今回はなぜか黒インクで、左手の人差指であった。僕の場合、述べてもいない感想や情動も検事によって適当に創作され、調書に盛り込まれてはいたが、特に異議を申し立てるほどの内容ではなかったので、1、2の事実関係のみ修正してもらい、押印した。

 取り調べは、午前中のみで終了した。帰り際に、もう一度取り調べのある旨を伝えられる。畢竟、もう10日間の勾留延長である。わかっていても、物悲しい。

 戻ると、覚醒剤の売りで入っていた田中氏の公判が話題になっていた。なんと、5年の求刑があったという。覚醒剤は大麻よりも刑罰が重く、さらに、買った方より売った方が重いというのも聞いてはいたが、それにしても重すぎる、というのが大方の見解であった。しかも、お盆休みが挟まるので、判決は8月末との事。
 やっと検事調べの始まったばかりの僕は、先の長さに、暗澹とした思いであった。

 新たに中国人が入ってくる。今度の人は、日本語が全くダメなようで、通常ならば中国語の通訳をしている担当も困惑している。
 そこで、3カ国語ペラペラのケンさんの登場である。彼によると、今度の中国人は北の方の人で、韓国語なら少し理解できるとのこと。

 このケンさん、数年前、山口県に上陸したのだが、来た当時は鋳型の解体で稼いでいた。火を落としたばかりの鋳型の中に入り、中から壊す作業なのだが、まだ内部は赤熱している。そこにでっかい塩の固まりと、ペットボトルの水を支給されて入るのだが、15分交代でも倒れる者が多かったそうである。稼ぎはよく、月に80万くらいになった由。ただし、日本人は1人もいなかったそうである。
 その後、金を貯めて、この地に流れ着いたのだが、彼の語学力からすると、もっとほかに稼ぎ口もあったのではないか、というのは、余計なお世話か。

(つづく)


※この手記は2003年に執筆されました。

この記事は故人の遺志により、妹が公開したものです。故人ですのでサポートは不要です。ただ、記事からお察しのとおりろくでもないことばかりやらかして借金を遺して逝ってしまったため、もしも万が一、サポートいただけましたら、借金を肩代わりした妹がきっと喜びます。故人もたぶん喜びます。