ヨハネの黙示録14章の解釈
【概要】
1−5節 十四万四千人の人たちの歌う新しい歌
6−13節 三人の御使いが告げる言葉と天からの声
14−20節 雲に乗った方による地の刈り取りと、御使いによる地のぶどうの刈り取り
獣の幻の後、ヨハネはまた別の幻を見る。それは子羊がシオンの山の上に立っており、子羊と共に十四万四千人の人たちがいる光景である。
子羊は黙示録において一貫してキリストを象徴する姿である。子羊の姿で現れているということは、この光景が一種の象徴であるということを意味する。
●シオンの山
ここで子羊はシオンの山の上に立っている。シオンはエルサレムの一部またはその全体、時にはその全体を指す名称である。ここでのシオンの山が現在の地球上にある物理的な山のことであるとすれば、キリストが地上にいることになり、これは再臨したキリストであると解釈できる。しかし、ヘブル12:22では「あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム」とあり、シオンの山と(今の地上のエルサレムではない)天上のエルサレムが並置されており、シオンの山が天上のエルサレムのことを指す場合があることがわかる。また、詩篇87篇は、明らかに地上のシオンではなく、異邦人さえもそこで生まれたと言われる霊的なシオンを描いている。黙示録においてシオンという名称は14:1にしか出ず、地上のエルサレムのシオンか天上のエルサレムのシオンかは明確ではない。3節では、4章でヨハネが天の光景として見た御座と四つの生き物と長老たちが登場し、十四万四千人の人たちはそれらの前にいる。1節ではシオンの山の上にいたはずだが、3節で場面が天に切り替わったことを示唆するような言葉は何も書かれていない。断りなしに場面が地上から天に切り替わったと解釈することもできなくはないが、「シオンの山」が「御座の前」と同一の場所として象徴的に書かれているとも解釈できるし、「シオンの山」と「御座の前」が別々の場所だとしても、どちらもやはり象徴的な描写であるとも解釈できる。4章にも登場した御座、四つの生き物、長老たちが象徴的な描写であると思われることや、子羊や十四万四千人の人々という象徴的な書かれ方からすると、ここでのシオンの山は物理的な地上のシオンではなく、象徴的な場所、特に天上のエルサレムの象徴としてのシオンと解するのがよいのではないかと思う。
シオンの山の上に立つことには、以下に示されているようにキリストが王として立てられていることへの示唆があると思われる。
また、シオンは聖なる山として、神の前に義と認められた者がそこに住むことができる、あるいは登ることができるとも書かれている。
子羊とともにいる十四万四千人の人たちは、このように義と認められた人たちとしてシオンの山の上にいる。この光景が象徴的なものであるとするなら、シオンの山に彼らがいるのは彼らが神に義と認められた立場にあることの象徴である。
●十四万四千人の人々
十四万四千人の人々は7章でも登場した。7章では、彼らはダン族を除く十二部族が一万二千人ずつで合計十四万四千人であると書かれていた。
この十四万四千人のイスラエルが血統的に肉体がユダヤ人の血筋であるイスラエルのことを指すのか、異邦人も含めたクリスチャンを象徴的にイスラエルと呼んでいるのかという問題がある。ローマ11章は、血統的なイスラエルの多くが悔い改めて救われる時が来ることを言っているようにも見える。しかし、他のところでは、「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではない」(ロマ9:6)とも言われており、異邦人が「イスラエル」に含まれるともとれるような表現がある。他にも、以下のような箇所がイスラエルに異邦人が含まれることを示唆しているようにも見える。
血統的なイスラエルの多くが悔い改めるときがやってくるとしても、象徴的な(霊的な?)「イスラエル」に異邦人が含まれることとは必ずしも矛盾しない。ただし、上記の箇所は、直接「イスラエルに異邦人が含まれる」という文言を使ってはいない。それで、「イスラエル」という言葉に血統的な異邦人が含まれない可能性は残されている。
十四万四千人の「イスラエル」が象徴的な表現でそこに異邦人が含まれるなら、7:9−17に登場する、「白い衣を身にまとった」、「すべての国民、部族、民族、言語から」の、「だれも数えきれないほどの大勢の群衆」は、直前の7:3−8に書かれている十四万四千人のイスラエルと同一の人々を指していると解釈できるように思われる。しかし、十四万四千人という具体的な数を述べた直後に「だれにも数えきれないほど大勢」という記述が同じ対象に使われるのは矛盾しているようにも見える。
また、主イエスが終わりの時について語られた福音書の記事として、終わりの時についての言及と思われるマタイ24章、マルコ13章、ルカ21章の記述があるが、そこではユダヤ戦争の結末としての紀元70年のエルサレム陥落のことが重ね合わされて預言されているように思われる。ユダヤ戦争は当然ユダヤ地方が舞台であり、血統的なユダヤ人がその苦難を経験した出来事であるが、終わりの日の出来事も地上のユダヤ地方の血統的なユダヤ人が関係するかははっきりしないように思われる。主イエスの語られたことのうち、ユダヤ戦争のことと終わりの日のことを明確に切り分けるのは難しい。
●人数の意味
部族ごとに一万二千人ずつ、合計十四万四千人というのは文字通りの人間の数だろうか。その可能性が絶対にないとは言い切れないが、黙示録はその描写の多くが比喩・象徴によって書かれており、この人数についても明らかに象徴的なもので、必ずしも文字通りの人数の人間が救われると取るべきではないと私は考える。キリストがこの場面で子羊の姿で描かれていることからしても、この場面の光景は写実的な描写ではなく、一種の象徴的な絵であると捉えるべきである。重要なのはここで使用されている「十二」部族、「一万二千」人(12×1000)という数字の象徴的な意味である。「12」という数字は聖書の中では「神の完全な支配、また、その支配のもとにある領域」を表す。もちろん全てのことは神の支配下にあるが、12という数字はもっと特定され選別(聖別)されて神に属するものとなった領域、神の王国となる領域について用いられる。つまり、十四万四千人は神の支配に属する者たち、神のものとして神に仕える神の国の民であるということを表している。
●額の名前
十四万四千人の人々の額には子羊の名と、子羊の父の名が記されている。7章では額に印を押すと書かれており、それが名であることや誰の名であるかということは書かれていなかった。額の名は彼らの所属を表し、彼らがキリストのものであり神のものであるということを表しており、そのことを明示し、保証し、他の者たち(神のものではない悪しき者たち)と区別している。子羊の名と子羊の父の名が並記されていることは、キリストと父なる神が一つであり、子羊のものであることがすなわち父なる神のものでもあるという同一性を表している。
13章に出てきた獣に服する人々が受ける獣の刻印と、神のしもべが受ける印は対比的に記されている。獣の刻印が獣の名であったのに対して、神のしもべの印は子羊と子羊の父の名である。13章の最後に獣の刻印について書かれていたが、直後の14:1で神のしもべの受けた印について言及されていることで対比が鮮明になっている。
神のしもべが子羊(キリスト)と神の名を受けることについては、黙示録の他の箇所にも書かれている。
神のしもべの額に印が押されることは、エゼキエル書9章の幻が下敷きになっている。エゼキエル書では、エルサレムで行われている忌み嫌うべきことを悲しむ人々の額に「しるし」が付けられ、殺されることを免れる。そこでの「しるし」は原語では「タウ」という文字であるが、当時使われていたとされるフェニキア文字では「タウ」は十字の形をしており、十字架を予表しているようにも見える(ヘブライ文字のタウはת)。
●天からの声
黙示録には「天からの声」がする箇所が7箇所ある(4:1、10:4、10:8、11:12、14:2、14:13、18:4)。
「声」と訳されている語φωνήは「音」という意味もあり、どちらの意味かは文脈によって判断する。
ここでヨハネが聞いた「声」は三つのものに類似していた。
①大水(多くの水)
②激しい(大きな)雷
③竪琴奏者たちが彼らの竪琴で竪琴を弾いているよう
声の比喩としての「大水」は黙示録に3回出る(1:15、19:6)。1章では主イエスの象徴的な姿の描写の中で、その声が大水(多くの水)のようだと言われている。19章では子羊の婚礼の時が来たことを告げる(恐らく19:1と同様に)天での声が大水(多くの水)のようだと書かれている。19:6では、他にその声が大群衆(多くの群衆)の声のようだとも激しい雷鳴(強い雷の音)のようだとも書かれており、大水と雷の二つの比喩が14:2と共通している。19:6は、大群衆も大水も激しい雷鳴も、その声が「非常に大きい」ということを総じて表しているように思われる。14:2も、大水と激しい雷はその声の「大きさ」を表現しているのではないだろうか。
しかし、「竪琴奏者が竪琴を弾くような」声というのは明らかに声の「大きさ」を強調する表現ではない。
名詞の「竪琴(κιθάρα)」は黙示録に3回出る(5:8、14:2、15:2)。5:8では、子羊が巻物を受け取った時に、新しい歌を歌う四つの生き物と二十四人の長老たちが「竪琴」を持っている。恐らくこの「竪琴」は5:9−10の新しい歌を歌うための伴奏楽器として描写されている。15:2ではモーセの歌と子羊の歌を歌う人々が神の「竪琴」を手にしている。彼らは「獣とその像とその名を示す数字に打ち勝った人々」とも書かれており、十四万四千人の人々と同一の人々と思われる。5章でも15章でも「竪琴」は歌が歌われる場面に関係している。14:3でも、十四万四千人の人々が「新しい歌を歌った」とあり、やはり歌が共通しており、14:2の竪琴を弾くという表現も、3節の新しい歌を歌うことと関連した表現であろう。
●新しい歌
十四万四千人の人々は新しい歌を歌う。歌の内容は記されていない。上述のように、黙示録では他に5章と15章に歌の記述がある。5章では十四万四千人の人々は登場しないが、14:3と同じく四つの生き物と長老たちが登場し、「新しい歌」という表現も共通する。しかし、5:9−10の歌の内容は神のために贖われた人々のことをそうではない立場から歌う内容であり、贖われた当事者と考えられる十四万四千人が歌う歌とは違う内容なのは明らかだろう。15章では「新しい歌」とは言われず、「神のしもべモーセの歌と子羊の歌」であるが、歌っている人々は十四万四千人の人々と同じであると思われる。内容は全体的に終わりのときのさばきを実現した方として神を讃えるものである。14章と15章の歌の内容が同じか異なるかははっきりしない。
黙示録では「新しい(καινός)」という語が新約中最も多く登場する(9回)。勝利を得る者が受ける新しい名、新しいエルサレム、新しい歌、新しい天と地、すべてを新しくする神の宣言のことが書かれている。黙示録は神が世の終わりに新しい世界を打ち立てることを描くことに重点を置いた書だと言える。「新しい歌」というのも、そのような神が新しい世界を打ち立てることに関係し、その実現を喜び、賛美する内容に違いない。
旧約聖書には、「新しい歌」が7箇所出てくる(詩篇33:3、40:3、96:1、98:1、144:9、149:1、イザヤ42:10)。詩篇96、98篇、及びイザヤ42章は終末的な内容であり、黙示録との関連が強く示唆される。
詩篇96篇:最初の行が「新しい歌を【主】に歌え」である。主が来られて諸国の民をさばくことを歌っている。
詩篇98編:96篇と似ており、最初の行と主が来られて諸国の民をさばくという内容が共通している。
イザヤ42章:異邦世界が主に歌い、栄光を帰するという内容である。
イザヤ42章の「新しい歌」と黙示録14章における「新しい歌」が直接結びつけられるなら、黙示録の「新しい歌」を歌う十四万四千人は異邦人を含んでいるという解釈を補強する。
この歌を学ぶことができるのは地から贖われた十四万四千人の人々に限られていた。この歌を歌うことと、贖われた特定の人々であることは不可分である。この歌は間違いなく神を褒め称える内容のものであるだろうが、終わりの日に完全に実現した神による世界の贖いを受けて歌われる歌を歌うことは、その時に贖われたものとして御前に立つことができる者たちだけの特権である。
「地から贖われた」という表現は、彼らが地に属する者たちの一員ではないということを示しているように思われる。4節では、「人々の中から贖い出された」と書かれている。贖われた者たちは、それ以外の者たちと明確に区別される。
●童貞・傷なき者・初穂
女に触れて汚れたことがない童貞だというのは、5節の内容の象徴的な表現である。「偽り」は新しい天の都エルサレムに入ることができない者の特徴である(21:27、22:15)。傷がないというのは、神の前に聖なる者であること、責められるところのない者であることとほとんど同義である。ここでは特に、額の名や直前の獣の記事、またこの後の9−11節の御使いの言葉に示されているように、獣の刻印を受けるかどうかという問題に関わっている。獣の支配に屈しないで信仰と忍耐を貫くことで、神のしもべであることが証明されるのである。
彼らは神と子羊への「初穂」でもある。「初穂ἀπαρχή」は新約聖書に8回出るが、黙示録ではここだけである。初穂は最初の収穫物であり、後に同様の収穫物が続くことを示唆する意味でもこの言葉が使われるが、ここでの初穂は恐らく捧げ物として「最も良いもの」、最上の捧げ物という意味だと思われる。
激しい患難に耐え抜き、ついに地から収穫された聖徒たちは神とキリストの前にこの上なく好ましい捧げ物である。捧げ物としての収穫物という聖徒の比喩は、この後14−16節でも現れる。
6節から立て続けに三人の御使いが登場し、それぞれの言葉を告げる。
「もう一人の」とあるが、単に「他の」と訳すこともできる。14章に登場する三人の御使いは一つのまとまりだから、前に登場した御使いに引き続くような言い方の「もう一人」より、「他の」としたほうが良いだろう。この前に登場する特定されて言及される御使いは12章のミカエルを除くと、11:15の第七のラッパを吹く御使いである。
●地に住む人々
地に住む人々を「国民、部族、言語、民族」という四種のもので表現するのは「あまねく全ての領域」を象徴的に表す方法であり、黙示録に7箇所登場する(単語の順番がそれぞれ異なり、最後の17:15だけは部族の代わりに群衆となっている)。
●中天
この御使いは「中天」を飛んでいた。「中天」μεσουράνημαは新約中黙示録のみに3回登場し(8:13、14:6、19:17)、8章では第5〜7のラッパによる災いを告げる鷲について、19章では罪人たちの肉を食べる鳥たちについて、「中天」を飛んでいると書かれている。地に対して直接何かを告げる、行為する天の存在がいるところとして「中天」があるのだろうか。
●永遠の福音
この御使いは地に住む人々に伝えるための「永遠の福音」を携えていた。永遠の福音という言葉が使われているのは新約中ここだけであり、「福音」という語は黙示録でここだけに出る。「永遠の」という形容詞αἰώνιοςは黙示録でここだけだが、「永遠」という名詞αἰώνは黙示録に26回出て新約中最頻出であり、ここで「永遠の」という形容がつけられているのも、黙示録の永遠のものを重視する強い傾向を反映している。「福音を伝える」という動詞は黙示録では10:7と、同じ14:6にある。7節の言葉がその「福音」の内容だとすると、それは神のさばきの時を宣言するものであり、他の書簡で述べられる「福音」と比較すると、非常に限定的な内容であるように思われる。続く二人目、三人目の御使いが述べる言葉を合わせても、総じてやはり神のさばきを語っている。もちろん、神のさばきの実現は終わりの日の計画の成就であるから、福音の一側面であるとは言える。
●大声
御使いは「大声」を出す。続く二人の御使いも同様に「大声」である。黙示録では「大声」が発される箇所が12箇所あり、そのうち9回は御使いが発する。恐らく、特に天から告げられる言葉や神への賛美などが「大声」であることには、告げる内容が揺るぎない確かなものであることを表現しているのだろう。ただ、黙示録では「声」以外にもさまざまなものが「大きい」と形容されており、「大きい」を意味するμέγαςの登場回数が新約中最も多くダントツの多さである。何かが「大きい」ことは黙示録全体の特徴としても捉えておく必要がある。それは全世界的な規模の「大きさ」、形容されている対象の「偉大さ・強さ」、終末における「究極」の出来事であることなどが「大きい」という表現に込められているのかもしれない。
●礼拝の命令
御使いはさばきの時の到来を告げるとともに神への礼拝を促す。彼が福音を携えていることと合わせると、これは悔い改めを命じているのかもしれない。
●四つの領域の創造者なる神
ここでは神は「天と地と海と水の源を創造した方」と表現されている。①天②地③海④水の源という四つの領域が列挙されており、つまり、あまねく全てのものを創造した方であるということを表しており、さばきの到来を告げる言葉と合わせて使われていることからすると、全ての領域が神に創造されたものとしてそのさばきに服するということをも表しているかもしれない。
二人目の御使いはバビロンの崩壊を告知する。
●バビロン
バビロンは、歴史的に実在した都市としてはメソポタミア地方の古代都市で、ユーフラテス川沿い、現在のイラク南部にあった。聖書においては創世記にニムロデが建設したと思われるバベルのことが記されている。また、アッシリアの後に覇権を握りユダ王国を滅ぼした新バビロニア王国の首都がバビロンであった。しかし、その後の歴史の中で衰退し、現在では廃墟となっている。
1ペテロ5:13に「バビロンの教会」が出てくるが、ここでの「バビロン」は一般にローマのことだと解釈されている。
黙示録では、バビロンの都は①竜、②獣、③偽預言者に続く第四の悪の存在の幻である。11章に登場した、二人の証人の死体がさらされる大通りを持つ「大きな都」は、このバビロンと同一の存在を指していると思われる。17章では獣と結託した「大淫婦」の幻として登場し、18章ではその罪に対する具体的なさばきが語られる。
黙示録の「バビロン」をどこかの都市や国として特定するのは難しい。11:8ではこの都が霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれ、そこで主も十字架に架けられたとある。主が十字架にかけられたのはエルサレムであるが、それも一種の「霊的な」理解による表現かもしれないので、エルサレムやエルサレムを擁するイスラエルのことだとは断言できない。黙示録におけるバビロンについての罪の記述やそれに対するさばきの内容は旧約聖書における、神に反抗し罪を犯したさまざまな国や地域(ユダとエルサレムも含む)に対する預言の言葉の組み合わせのようにも見え、預言書からも地域や国を特定できない。18章におけるバビロンについての記述は、預言書におけるツロ(ティルス)についての預言に最もよく似ているが、現在のツロ(ティルス)にかつての繁栄の面影の一切なく、遺跡だけが残っている。
いずれにせよ、17章の幻においてバビロンの象徴である大淫婦は獣の上に乗り「もろもろの民族、群衆、国民、言語」の上に座しており、獣との一体性と、その影響力の強大さが全世界的なものであるということは知ることができる。
御使いはバビロンが倒れたと告げるが、どのようにして倒れたのかという詳細はここでは書かれておらず、ただ倒れたということのみが宣言される。同じ宣言は18:2でもなされる。また、イザヤ21:9の言葉もバビロンについて「倒れた」を2回繰り返している。
●淫行のぶどう酒
バビロンが神の怒りを受けるのは、「淫行のぶどう酒をすべての国々の民に飲ませた」からである。淫行は普通の意味では性的な面で正しい道を外れた個人、また人同士の行いのことだが、バビロンは「大きな都」であって「淫婦」は擬人化された表現であり、「淫行」は比喩的な表現である。黙示録はこの「淫行」が具体的になんであるかをはっきり説明していないが、主に17、18章の記述からある程度推測することができる。ここでの「淫行」は特に経済的な繁栄の追求と、そのために行う諸国との商取引を指すようである。金銭を愛することはあらゆる悪の根であり(1テモテ6:10)、人は神と富との二人の主人に仕えることはできない(マタイ6:24、ルカ16:13)。貪欲はそれがそのまま偶像礼拝である(コロサイ3:5)。
三人目の御使いは、獣とその像を拝む者、獣の刻印を受ける者に対するさばきを告げる。
このさばきは「神の憤りのぶどう酒」を飲むと表現されている。これはバビロンが地の諸国に「淫行のぶどう酒」を飲ませたことと対応する報いである。さばきのぶどう酒は「混ぜ物なし」であった。おそらくこの「混ぜ物なし」は、一切の憐れみや容赦のないさばきだという意味であろう。
このさばきを受ける者は、「聖なる御使いたちと子羊の前で」苦しめられる。このさばきから御使いあるいは子羊が苦しめられている者たちを救い出すということはない。そこに助けはない。神の怒りは子羊の怒りでもあり、御使いもそのさばきの執行者として仕え、そのさばきをふさわしいものとして認める。
●火と硫黄
さばきを受ける者たちは、「火と硫黄によって」苦しむ。火と硫黄は神が悪者に下す罰として聖書の中に記されている。
創世記におけるソドムとゴモラへの裁きは火と硫黄が天から降ってくるというものであった。
黙示録では、9章における第六のラッパの災いで、人間の三分の一を殺す、二億の騎兵の乗る馬の口から「火と煙と硫黄」が出ていて、それによって人が殺される(9:17−18)。また、獣と偽預言者、悪魔に対するさばき、第二の死と呼ばれる最終的なさばきは、「火と硫黄」の池に投げ込まれることである(19:20、20:10、21:8)。
●立ち上る煙
獣の支配に服してさばきを受ける者たちの苦しみは、「煙」として「世々限りなく立ち上る」。この煙は、神のさばきが確かに実現したことを示し、また忘れられることなく示し続ける目印であり、記念である。ソドムとゴモラが滅ぼされた時も、その地から煙が立ち上った(創世記19:28)。またエドムに対するさばきの預言においても、燃えていつまでも立ち上る煙について預言されている(イザヤ34:9−10)。また、ユダの罪に対するさばきの預言としても、火と煙が言及されている(イザヤ65:2−5)。
●安らぎなき裁き
獣の支配に服して裁きを受ける者たちには「昼も夜も安らぎがない」。この終わりの時のさばきは途切れることなく永遠に続く。これは悪魔と獣と偽預言者の受ける苦しみと同じである(20:10)。
●信仰者の忍耐
ここに信仰者たちの「忍耐」があると言われる。「忍耐」ὑπομονήという名詞は黙示録に7回登場し、ここが最後である。信仰者たちは獣の支配する世にあって大きな迫害を受けるが、それを忍耐する必要がある。バビロンと獣に服する不信仰者たちは必ず神の怒りのさばきを受ける。そのときがくるまでの一時を忍ばなければならない。やがて来るべき解放の時への希望が続いて告げられる。
三連続の御使いの言葉が終わると、天からの声がして、それに応じる御霊の言葉が述べられる。この声は悪者へのさばきではなく、正しい神のしもべへの報いについて語る。
●書き記すこと
天からの声は「書き記せ」と言う。「書く」γράφωは新約中黙示録に最頻出で、アオリスト2人称単数命令形の「書き記せ」γράψονに絞ると黙示録に12回出る(1:11、1:19、2:1、2:8、2:12、2:18、3:1、3:7、3:14、14:13、19:9、21:5)。「12」という数字は、聖書では神の完全な支配またその支配に属する領域・領土を表しており、12回の「書き記せ」は、書かれた事柄が、完全な神の支配のもとに必ず実現するということを表しているのかもしれない。
●主にあって死ぬ幸い
「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである」と告げられる。「主にあって死ぬ」とは殺されることを意味しており、殺されることが幸いだとは普通誰も思わない。しかし、続く御霊の言葉が幸の理由を教えてくれている。主への信仰を死んでも守り通した者たちは、その労苦から解き放され、その行いの報いを得ることができる。
●安らぐこと
主にあって死ぬ死者たちは、労苦から解き放たれて「安らぐ」ことができる。ここでの「安らぐ」ἀναπαύωという動詞は11節の、獣に服した者たちに「安らぎ」ἀνάπαυσιςがないと言われている語と同語根の名詞であり、罪人へのさばきにおける「安らぎ」のなさと、信仰者に与えられる「安らぎ」が対比的に書かれている。
●「幸い」
主にあって死ぬ死者は「幸い」である。黙示録には「幸い」μακάριοςという語が7回登場し、ここはそのうちの2回目の登場箇所である。この語は1回目と6回目、2回目と5回目、3回目と4回目の内容がそれぞれ対応しており、14:13の「幸い」は20:6の「幸い」と対応している。
黙示録
20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。
次の14−20節には、二つの刈り取りが書かれている。前半は地の穀物の刈り取りであり、後半は地のぶどうの房の刈り取りである。
●人の子
雲の上に座っている人の子のような方はキリストである。黙示録において、雲とともに現れる存在は10:1に登場する御使いと、ここでの「人の子のような方」の二者であるが10章の存在が雲に包まれているのに対して、人の子のような方は雲の上に座っている。10章の存在が御使いと明記されているのに対して、ここでは「人の子のような方」と言われている。「人の子」はイエスが自身のことを指してしばしば用いた表現として四福音書すべてに登場し、ステパノもイエスのことを「人の子」と呼んでいる(使徒7:56)。黙示録において「人の子のような方」という表現は1:13にも出るが、前後の文章から判断してこれもキリストのことである。また14:18で「鋭い鎌を持つ御使い」が登場するが、そこでは「御使い」と明記されているのに対してここでは「人の子のような方」という特別な表現がなされている。
キリストは雲に乗って再臨することが他の箇所で示されている(マタイ24:30、26:64、マルコ13:26、14:62、ルカ21:27、黙示録1:7)。
●金の冠
雲に乗った方の頭には「金の冠」があった。黙示録では二種類の「冠」がある。ここでは黙示録に8回登場するστέφανοςが用いられている。στέφανοςは、時には支配者の金属製の冠を指すこともあったとされるが、一般的には栄冠、花環、花冠、花かづらのような冠を指し、運動競技の勝利者への賞、祝祭時の頭の飾り、市民のために価値ある功績をなしとげた者に与えられた冠などを指した。竜(12:3)と海からの獣の十本の角(13:1)、そして19:12のキリストがつけているのはδιάδημαと呼ばれるもので、金属で造られた薄いベルト状の巻き冠、王冠を意味する。雲に乗った方の頭にあるのは「金の」冠だから、花環ではない。しかし、διάδημαではなくστέφανοςが使われているということは「勝利者」としての側面が強く表されているのかもしれない。また、「金の」冠であったことは義の象徴だと思われる(伝統的に金は義の象徴と解釈されている)。ちなみに「金の〜χρυσοῦς」という語は新約中黙示録にダントツで多く15回出る。
●鋭い鎌
雲に乗った方は「鋭い鎌」を持っている。これは地の穀物を刈り取るためであり、地上に鎌を投げると地は刈り取られる。この穀物の刈り取りは17−20節のぶどうの刈り取りと同様に象徴的な記述である。穀物の刈り取りは、神の民を地上から取り集めることを意味している。
●刈り取りーー神の民を集める
終わりの時のことについて、イエスはご自分が雲のうちに来るとともに、御使いたちを遣わして選ばれたものたちを集めることを告げた。
黙示録14章の人の子のような方は自ら鎌を地上に投げるが、これが御使いを遣わすことと特に矛盾するわけではない。
●御使いの登場する意味
神殿から出てきた御使いが刈り取りを促す言葉を発することで、人の子のような方は鎌を投げる。これは17−20節でのぶどうの刈り取りでも、刈り取る御使いの他に、その御使いに刈り取りを命じる御使いがいるという関係と対応している。神殿から出てきた御使いは、収穫の時が来て、穀物が実っていることを鎌を入れるべき理由として告げる。これが神殿から出てきた御使いから告げられることの意味ははっきりとは分からないが、神的な権威に基づいた決定であることが表されているのかもしれない。
14−16節が選ばれた神の民の刈り取りだったのに対して後半の17−20節は神の前に裁かれる罪人たちの刈り取りである。それはこれが御使いによってなされた行為であり、19節の「神の憤り」という言葉や、20節の踏まれたぶどうから「血」が流れ出たという表現を合わせて考えることから導かれる自ずから明らかな意味である。
●穀物の刈り取りとぶどうの刈り取りの対応
14−16節では、鎌を投げ入れる存在=人の子のような方、刈り取りを促す存在=神殿から出てきた御使いだったが、ここでは鎌を投げ入れる存在=神殿から出てきたもう一人の御使い、刈り取りを命じる存在=祭壇から出てきた火をつかさどる御使いである。
●「外」で裁かれる罪人
祭壇から出てきた御使いは火をつかさどるが、祭壇はいけにえを焼くためのものであり、火との結びつきは自然である。ぶどうは「都の外」の踏み場で踏まれた。都には罪人のいるべき余地はない。黙示録では、都と神殿と神の民は一体のものとして描かれているふしがある。御使いが神殿や祭壇から出て来るのは神のものである領域とその外の存在を区別する意味があるのかもしれない。
●ぶどう踏みの比喩による裁きの預言
ぶどう踏みの比喩は以下の預言を背景にしていると思われる。
●踏み場の大きさ
踏み場は「大きな」ものであった。その裁きが広範で大規模なものであることを表している。
●流れ出た血
踏み場から流れた血は「馬のくつわの高さに届くほど」になり、「千六百スタディオン(約300km)」に広がる。これもやはり裁きが広範で大規模であることを流れる血の量の膨大さによって表している。なぜ「馬のくつわの高さ」が引き合いに出されているのかは不明だが、19:11−13に登場するキリストが白い馬に乗って血に染まった衣を来ている姿と関係があるかもしれない。19:15では「神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である」と記されており、踏み場でぶどうを踏むのはキリストご自身であると分かる。「千六百スタディオン」という具体的な数字の意味も不明であるが、「四」の倍数(4×4×100=1600)であることから、あまねく全地に及ぶ裁きを意味しているかもしれない。
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