ヨハネの黙示録13章の解釈
黙示録13章では海から上ってくる獣と地から上ってくる獣が登場する。12章の最後で竜(サタン)が海辺の上に立つが、2頭の獣は竜の支配下にある存在であり、竜の権威のもとに活動する。
11章7節で既に神の二人の証人を殺す「底知れぬところから上ってきた獣」が登場するが、海からの獣は11章の獣と同じ獣であると考えられる。11章の獣が二人の証人と戦って勝つように、この13章の海からの獣も「聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つ」(13:7)。17章でも七つの頭と十本の角という同じ特徴を持つ緋色の獣が出てくるが、これも同じ獣を指している。
17章では、七つの頭は七つの山(丘)、七人の王であり(17:9)、十本の角は十人の王たち(17:12)と説明されている。
2節で描写される獣の姿はダニエル書7章の幻に出てくる世界帝国を表す獣の姿の特徴を持っている(ダニ7:1−8)。
ダニエル7章の幻では、海から上ってくる四頭の獣が登場し、①獅子・鷲の翼ーバビロン、②熊ーメディアとペルシア、③豹ーギリシャ帝国、④恐ろしく不気味な非常に強い獣ーローマ帝国と終末に現れる最後の帝国をそれぞれ表している。
黙示録の海からの獣は、ダニエルの幻の1〜3番目までの獣の、豹、熊、獅子の特徴を合わせ持ち、黙示録における海からの獣がダニエルの幻に現れた獣の系譜に位置付けられる事、つまり海からの獣=四番目の獣であることを示している。
要検討:海はダニエルの幻における獣が全て異邦人世界から出てきたことからすると、異邦人世界を表しているかもしれない(それゆえ、黙示録において神の民しか都にいない異邦人不在の新天新地では海は存在しない)。
七つの頭と十本の角を具体的に特定の国や人物に当てはめるのは難しい。未来預言的な解釈を避ける傾向のある学問的な注解者たちは、黙示録において言及される苦難を黙示録執筆当時のローマ帝国における迫害と解釈し、七つの頭も七人の歴代ローマ皇帝あるいはローマ帝国を象徴するローマの七丘という実在の七つの丘のこととして解釈する傾向があるようである。
しかし七つの頭を聖書的な観点から見た七つの世界帝国のことと解釈することもできる。この整理では七つの頭は①エジプト、②アッシリア、③バビロン、④メディア・ペルシア、⑤ギリシャ帝国、⑥ローマ帝国、⑦やがて現れる終末の帝国となり、十本の角は獣の国と同盟関係となる十カ国連合のことだとされる。七つの山(丘)は直接的なイメージのもとになっているのはローマの七丘かもしれないが、もう少し広い意味で王権の象徴と見ることもできるだろう。
ダニ7:17で四頭の獣が四人の王と言われているように、国家と王は同一視される。獣の頭や角は王(王権)であると同時にその国家全体や国家の集合としての獣自身でもある。
12章に登場する赤い大きな竜(サタン)も七つの頭と十本の角を持っており、獣の特徴と一致している。これは獣の出現と行動がサタンの計画、支配、後ろ盾によるものであることを表している。
この獣の頭には神を冒涜するさまざまな名が記されている。これはこの獣の本質がなんであるのかを表している。獣あらゆる領域で神の名を汚して悪魔崇拝、偶像礼拝を行わせるために存在するサタンの道具である。
獣の頭のうちの一つは打たれて死んだように見えるが、その致命的な傷は治ってしまう。この復活する(ように見える)頭は一般に第五代ローマ皇帝ネロのことであると解釈されることも多い。ネロは、クリスチャンに対する激しい迫害を行ったことで知られるが、第十一代(69年に乱立した三人を除けば第八代)皇帝ドミティアヌスは暴君として元老院に認定され、第二のネロという評価もある。
獣の頭を聖書的な観点から見た歴代の世界帝国として考えると、17章では七つの頭のうち五人は既に倒れて、一人は今いて、もう一人はまだきていない。既に倒れたのはエジプト〜ギリシャ帝国にいたる五つの帝国、今いる一人は六番目のローマ帝国、そしてまだきていない七番目は終末の帝国ということになるだろう。
ダニ7章の「四頭の獣の幻」における四番目の獣は順番から言えばローマ帝国であるが(①バビロン、②メディア・ペルシア、③ギリシャ帝国、④〈ローマ〉)、その獣が最後の獣として書かれていることは、ローマ帝国が終末の帝国と重ね合わせて書かれていることを意味していると思われる。それで、七番目の獣は「復活したローマ」として解釈されることもある。七つの頭のうちの一つの致命的な傷が治ったとは、そのようなローマの復活を指すだろうか。あるいは、七番目の帝国あるいはその王が11章の二人の証人の活動によって致命的な打撃を受け、八番目の帝国、王として復活することを意味しているのかも知れない。17:8で、獣が現れるのを見て驚くのはいのちの書に名が書き記されていない者だけであると言われている。聖徒にとって、この獣の出現は予期されていたことであり、驚くことはない。
ダニ7章の四番目の獣は黙示録の獣と同じく十本の角を持っており、さらにもう一本の他の角より大きい角が出てきて、その角のために十本の角のうち三つが抜け落ちてしまう。黙示録ではこの「もう一本の角」のことは出てこないが、黙17章における昔いたが今はいない、やがて底知れぬところから来る、八番目であるが七つの頭の七人の中の一人である獣のことを指すと考えられる。「もう一本の角」と似た角がダニ8章では「小さい角(しかしやがて非常に大きくなる)」として登場し、そこではこの角はギリシャ帝国を表す雄ヤギの折れた角の代わりに生じた天の四方に分かれる四本の角の一つから生じる。この四つの角はアレクサンダー大王の死後にギリシャ帝国が四つの勢力に分裂したことを表し、小さい角は四つの勢力のうちの一つであるセレウコス朝シリアの君主アンティオコス・エピファネス四世のことを直接的には指す。黙示録17章における昔いたが今はいない八番目の獣は「小さい角」エピファネス四世の再来として君臨し、ダニ7章の預言に従うなら十本の角によって表される勢力のうち三つを倒して自分の配下に置いてしまう大きな角となる。そして、彼は八番目であるから七番目の帝国をさらに越える全世界的な勢力の支配者となるのだと考えられる。彼が七人のうちの一人なのは、もともと五番目の勢力であるギリシャ帝国の中から彼が出てきたからであろう。
獣は人心を掌握して竜と自身を拝ませる。竜とはサタンであるから、竜を拝むということは悪魔崇拝をするということになる。未来の人々の多くが直接的に悪魔崇拝をするようになるというのは信じ難いことであるが、それは悪魔を絵本に出てくるいかにも悪そうな姿の存在としてイメージするからであって、「サタンでさえ光の御使いに変装する」(2コリ11:14)と言われているように、人々に受け入れられやすい、光の神のような神々しいイメージを「悪魔」や「サタン」という名さえ伏せて人々の前に示すのかもしれない。そして獣はその強大さゆえにだと思われるが、この獣に逆らうことは誰にもできないという思いを人々に抱かせる。
「大言壮語する口」という獣の特徴はダニ7章における、十本の角の後に出てくる「もう一本の角」の特徴としても書かれている(ダニ7:8、11、20)。そしてこの角が象徴する王は「いと高き方に逆らうことばを吐き」とあり(ダニ7:25)、黙示録の獣の「冒涜のことばを語る」という特徴と一致している。
四十二ヶ月という活動期間は年数にして3年半、日数にして約1260日である。この期間はダニエル書にも記述があり「半週(一周を七年に換算した期間の半分で3年半)」、「一時と二時と半時(1+2+0.5=3.5)」という言い方もされている(Dan7:25、9:27、12:7)。
黙示録では11章、12章、13章に同じ長さの期間の記述がある。11章では異邦人が聖なる都を踏みにじる期間および神の二人の証人が預言する期間が1260日として書かれている。12章ではサタンである竜から逃れた女が荒野で養われる期間が前半では1260日、後半では一時と二時と半時として書かれている。
11章において二人の証人が1260日間(約3年半)預言した後に獣が証人たちと戦って勝ち、二人を殺す。二人の証人の活動期間と獣の活動期間である四十二ヶ月(3年半)を足すと7年になる。これはダニ9章の「ダニエルの七十週」(1週が7年で7年×70=490年)と呼ばれる預言の最後の一週(7年)に当たると考えられる。
ダニエルの七十週の預言から、獣の活動は最後の7年の最初から始まることが分かるが、神の民にとって本格的な脅威になる迫害的活動が後半の3年半になるということだと思われる。黙13章で獣の七つの頭のうちの一つが致命的な傷を負うのは前半の3年半における二人の証人の活動によって七番目の帝国あるいはその帝国の王である滅びの子が致命的と思える弱体化や重傷を被るからかも知れない。
獣の活動の第一の目的、その最も重要なものは神に対する冒涜である。彼は以下のものを冒涜する。
①神の御名…神御自身
②神の幕屋…神の住まい
③天に住む者たち…神と共に住む神の民
「天に住む者たち」の「住む者たち」は直訳的には「幕屋に住む者たち」で、直前の「神の幕屋」と関連づけられる。また「神の御名」と「神の幕屋」の間には接続詞καίがあるが「神の幕屋」と「天に住む者たち」の間にはない。これは「神の幕屋」がすなわち「天で幕屋に住む者たち」と同一のものであるということかもしれない。旧約においては神の幕屋は人の住まいではなく、祭司が入って仕えるだけであった。しかし、天では神の住まいである幕屋と天に住む者たちの住まいである幕屋は同じであり、天に住む者たち自身が神の住まいそのものである(エペ2:22、黙21:3)。
7章に登場する白い衣を着た人々について、御座についておられる方が「彼らの上に幕屋を張られる」と書かれており、「天で幕屋に住む者たち」と同一の人々のことを指していると考えられる。すなわち、患難を経てそれを耐え抜いた人々である。獣の活動期間中は彼らは殺されるまでは肉体的には地上にいるが霊的な立場としては既に天に座と国籍を得ている(エペソ2:6、ピリピ3:20)。
獣が「聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つ」ことはダニ7:21に預言されている。しかし、具体的にどんな戦いなのかはイメージしづらい。銃や剣を使った物理的な戦いをクリスチャンが行うことはないと思われるし、戦いに負けることが信仰を失うことであるならそもそも「聖徒」とは呼ばれないだろう。するとここでいう「戦い」とは、クリスチャンの信仰生活、宣教活動が一方的に妨げられ、攻撃されるということだろう。宣教の声は獣の冒涜の声に負けて人々は耳を貸さないというようなことも含まれるだろう。
獣はあらゆる①部族、②民族、③言語、④国民を支配する。ここで獣に支配される四つのものが書かれているが、「4」は聖書では「あまねく全ての領域」を意味し、獣の支配が全ての国や地域に及んでいくことが表されている。
獣の支配は強力であらゆるところに及び、世界の基が据えられた時から屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されている者だけが獣の支配に屈せず、信仰を守り通すことができる。それ以外の者は例外なく獣を拝む。世界は獣を拝むものと拝まない信者に二分される。
いのちの書は黙示録に6回出る(3:5、13:8、17:8、20:12、20:15、21:27)。
9節の「耳のある者は聞きなさい」という言葉は黙示録に8回出るが、13:9はその最後である。他の7回は全て2〜3章における七つの教会へ書き送られた言葉の中で一つの教会ごとに一回書かれている。このことは、13:9−10が七つの教会への言葉の集約されたものということを意味しているように思われる。
聖徒たちの中には逮捕される者、剣で殺される者が出る。しかし、これは神が彼らを見捨てたからではなく、神に力がないからでもない。これは一時の間の忍耐と信仰が試される時であり、主は聖徒の忍耐による勝利を望んでいる。
11〜15節は地から上ってくる獣について書かれている。海が異邦人世界を表すのに対して地はユダヤ人の中からという意味だと解釈されることもある。しかし、黙12:12には「それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。しかし、地と海はわざわいだ。」とあるように天に対比された領域として「地と海」は一緒くたに否定されており、ここでは単に獣が出現する領域の区別を示しているのかも知れない。
地からの獣には子羊の角に似た二本の角がある。子羊は本来イエス・キリストの象徴であるが、この獣は自身がイエス・キリストあるいはその代行者であるかのように振る舞って人々を騙す。つまりこの獣は巧妙にキリストのように偽装された教えを説く偽キリストとして宗教的な面での惑わしを行う。この獣は黙16:13、19:20、20:10では「偽預言者」と書かれており、宗教的な面での惑わしを行う存在であるという見解が支持される。
角の数が「二本」と言及されていることには意味があるかも知れない。羊に角が二本あるのは当然ではあるが、聖書では「2」という数字は「証言」を象徴する。この偽預言者はキリストについて偽の証言をするということかもしれない。第二テサロニケ2:3において、「まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ない」と言われているが、不法の者、滅びの子が海からの獣であり、もう一方の「背教」を司るのが地からの獣である偽預言者と解釈できるように思われる。「まず背教が起こり」というのは、滅びの子より先に背教が起こるということを意味しない。「まず」というのは「主の日が来る前にまず」という意味であり、背教と滅びの子のそれぞれの出現の先後関係は不明であり、同時かも知れない。
地からの獣は「竜が語るように」語った。海からの獣の支配の背後に竜であるサタンがいて働いているように、地からの獣の活動も(本人に自覚はないかも知れないが)サタンの意志に従うものである。ヨハネ8:44に「悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです」と言われており、悪魔の本性が偽りであると分かる。地からの獣はまさに悪魔が本性から偽りを語るようにして偽りの教えを広める。
この獣は最初の獣と同じ権威を持っている者として振る舞う。最初の獣が持っていた「すべての」権威を働かせるということは、最初の獣と同程度の大きな権威を有していることをうかがわせる。その権威を最初の獣の「前で」働かせ、最初の獣を拝ませることは、二人の獣が協力関係にあることを表している。最初の獣は政治的な面で支配するのに対し、地からの獣は宗教的な面で支配し、最初の獣を支援する。
「地と地に住む者たち(直訳:地とそこに住む者たち)」は「地」と「そこに住む者たち」を分けて書く意味がわからず奇妙な表現に見えるが、「地すなわち地に住む者たち」というふうに訳して、「地」と「そこに住む者たち」が同一視されているというふうに捉えることができるのではないだろうか。
「地に住む」は他の箇所の「地上に住む(地の上に住む)」とは表現が異なっており、ここだけに出る。これは13:6の「天に住む者たち」と対比されている(岡山英雄)。
このような天に住む者たちとの対比を考えると、「地に住む者たちに獣を拝ませる」とは、単に人々全般に偶像礼拝を強制するということではなく、信仰がなく、いのちの書に名前がなく、従って天に住むことができない者たちのみが獣の活動によって偶像礼拝へと陥るということを意味しているのではないだろうか。
地からの獣である偽預言者は大きなしるしを行う。具体的に書かれているのは火を天から降らせることと、獣の像に息を吹き込んで獣の像がものを言うことができるようにしたという二つであるが、他にもしるしを行うようである。
天から火を地に降らせることは、聖書の中では基本的に神のわざ、裁きとして描かれる。ソドムとゴモラは天から火と硫黄が降ってきて滅ぼされた(創世記19章)。また、エリヤとバアルの預言者たちとの対決においてはエリヤの求めに応じて神が天から火を下し、それによって主がまことの神であることが証明された(第一列王記18章)。また、アハズヤ王が五十人隊の長を3回エリヤのところに遣わしたとき、最初の2回の五十人隊は天からの火によって焼き尽くされた(第二列王記1章)。そのような神からのものとしか思えないようなしるしが偽預言者によってなされる。患難時代の聖徒はそのような大きなしるしにも惑わされないようにしなければならない。たとえしるしがどんなに大きなものであっても、偽預言者の語る教えは偽りであり、神でないものを拝ませようとし、神を冒涜する教えであるから、その教えによって見分けなければならない。聖書は既に、モーセを通して、しるしや不思議を示す預言者が現れたとしても、その預言者が他の神々に従うことをそそのかすなら、その預言者の言うことに聞き従ってはならないと教えている。まず真の神である主に従うことが大前提であり、しるしや不思議によってその前提が覆ることはない。
地からの獣は最初の獣の像を造らせて、それを拝ませる。すなわち、最初の獣を神格化し、人々に偶像礼拝をするようにさせる。真の神以外のものを拝ませること、偶像を形作って拝ませることは、十戒に明確に反しており、地からの獣が偽りの者、偽預言者であることの証である(出エジ20:3−6、申5:7−10)。
地からの獣は最初の獣の像に息を吹き込んでものを言うことができるようにさせる。もしこれが一種の科学技術によるものであるなら、しるしとして人々に受け取られることはないであろう。これがしるしだとははっきり書いていないが、わざわざもの言うことができるようにする理由としては、それをしるしとして人々に感じさせるためという理由以外には見当たらないだろう。精巧に造られた人間そっくりの見た目で人間そっくりな動きや受け答えをするロボットなら既に実現されており、その振る舞いが科学技術によるものだと分かっているそのようなロボットに対して、人々は拝むほどの驚きを感じたりはしないからである。「息」と訳されている語は「霊」と訳すこともできる。獣の像が「ものを言う」ーーすなわち生きている”かのように”振る舞うことができるのは、悪霊による超自然的な力によるものかもしれない。出エジプト記においてモーセに対抗したエジプトの呪法師たちはある程度までモーセが行ったしるしを真似ることができたが、それも悪霊の力によるものだったかも知れない。いずれにせよ、通常の科学技術では実現できないような仕方で無機物に人間のような振る舞いをさせることができるなら、それに人々が驚いて礼拝するということもありうるだろう。
この像を拝まない者は殺されてしまうようになる。獣の支配下では信教の自由は奪われる。あるいは、他の神々を拝むことは許されるかも知れないが、獣とその像を拝まないという選択肢だけはない。真の神の民は文字通り命をかけた信仰を試されることになる。
獣はすべての者に刻印を受けさせる。それが具体的にどのようなものか(マイクロチップを埋め込むのか、身につける機械なのか、超自然的なマーキングか…など)は不明であるが、その刻印を受けている者しか売り買いができなくなるようにされる。おそらくこの刻印が売り買いの資格がある者の認証パスとして使われるのだろう。刻印を受けない者は社会的な経済活動の手段を一切奪われるわけだから、たとえ物理的な殺害などの暴力を免れても、ほとんど生活ができないような経済的苦境に立たされることになる。
この刻印はすべての者が対象であって、①年齢の多寡(大きい者も小さい者も)、②財産の多寡(富者も貧者も)、③身分(自由人も奴隷も)、そういったものによらない。特権的に刻印を免れる立場の者はいない。
刻印は右の手か額に受けることになる。右の手は聖書全体の中でそれが特に言及されるときには意志や力を示すもののようである。つまり刻印を受けることは獣に従うということの意思表示である。また、額は、その者の立場を表すようである。大祭司アロンの装束では、純金の札がかぶりものにつけられ、「主の聖なるもの」という印章が彫られていてアロンの額の上にあるようにされた(出エジ28:36−38)。また、エゼキエル書9章ではエルサレムの偶像礼拝を嘆き悲しむ者たちの人々の額にしるしが付けられ、殺されることを免れる幻が書かれている。獣の刻印は「獣の名」また「獣の名が表す数字」である。つまり刻印を受けることはその刻印を受ける者が獣の支配に属する者であるということを意味する。黙示録においては、獣の刻印は神の民が神の名前をその上に書き記される、あるいは額に印を押されることと対比的である(3:12、7:3−8、14:1、22:4)。
獣の名が表す数字について書かれている。ヘブライ語やギリシア語では文字が数字としても使われる。それで、名前の文字を数字に換算して足し合わせた数が獣の数字である666になるという解釈もある(皇帝ネロと言われることも多い)。しかし、明確なのはその数字が人間を表す数字であり、666であるということである。人間であるということは、神ではないということである。獣は自身が神であるように振る舞うが、その実態は単なる人間でしかない。知恵と思慮について言及されているが、神にある知恵と思慮は獣の強大さやしるしに惑わされず、そのあくまでも「神ではない人間」という本質を見抜くことができる。「六」という数字は聖書の中では人間を象徴する数字である(創造の六日目に造られた存在、完全数七に一つ足りない不完全な存在)。獣の数字が6ではなく666なのは、「間違いなく、絶対に、どこまでいっても人間でしかない」という強調のためだろう。
サタンと二頭の獣の三つ組の関係は、三位一体をまねた偽物と考えることができる。神の代わりにサタン、キリストの代わりに滅びの子である海からの獣、聖霊の代わりに偽預言者である地からの獣という構図である。彼らにその意識はないかもしれないが、このような対比によって特徴づけられる。
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