処女懐胎の預言について
旧約聖書のイザヤ書には、イエス・キリストの処女懐胎を預言した箇所があります。
この言葉は新約聖書のマタイの福音書で引用され、イエス・キリストの誕生によってこの預言が成就したと説明されています。
マタイの福音書ではイエスの母マリアは聖霊によって子を宿したと神の御使い(天使)によって説明されており、イザヤ書の引用は、処女なのにみごもったという、通常はあり得ないことが起きたことをもって預言の成就としていることは明らかです。
しかしながら、上記のイザヤ書の引用箇所の、口語訳で「おとめ」と訳されているヘブライ語の言葉עלמהには、「処女」という意味は特になく、単に「若い女、娘」という意味なので、これを「処女」懐胎の預言とみなすことはできないという議論があります。
Motyeriは、聖書中他に8回あるעלמהの用例から、創世記24:43、出エジプト記2:8、雅歌6:8を未婚の処女のことを言っている箇所として特定したうえで、特に創世記24:43の用例を重要な箇所として説明しています。
創世記24章にMotyerが注目しているのは、עלמהの他に、בתולהという語が一緒に使われていることによります。בתולהを辞書で引くとvirgin(処女)という意味が載っており、イザヤが処女を意味しようとしたならעלמהではなくבתולהの方を使ったはずだという主張も処女懐胎預言を否定する主張としてなされることがあります。Motyerは、旧約聖書に50回登場するこのבתולהという語について、処女を表していると特定できるか、そうとみなされるケースは21回であり、他の用例は隠喩的か一般的な意味であって未婚の女を意味すると断定できず、「意味を決定する条件はその語自体にあるわけではない。「結婚適齢期/結婚に向けて準備ができている女」が基本的な概念である」と指摘しています。
それを踏まえて、創世記24章(アブラハムのしもべがイサクの妻を探しにいく物語)の表現を見てみると、次のようになっています。
Motyerの整理によれば、アブラハムのしもべは最初の祈りでイサクの伴侶となるべき「若い女性נערה」について祈り、次いで、近づいてきた「若い女性נערה」であるリベカは「結婚適齢期の女性בתולה」だったが、בתולהは単独では十分に処女性を意味し得ないので「男を知らぬ」が捕捉されているとしています。そして最後に、このしもべがリベカについて知り得た知識の積み重ねによって、(リベカに出会った出来事を後から回想する会話の中で)彼女を「処女 עלמה」と述べている、ということになります。
この見解が正しければ、בתולהは必ずしも処女を意味しないことになります。そして「処女を表現するならイザヤは עלמהではなくבתולהを使ったはずだ」とは言えなくなり、むしろ逆に、処女性を表現するためにこそ、イザヤは最も適切と思われる עלמהを使ったのだということになります。
iアレック・モティア『ティンデル聖書注解 イザヤ書』(いのちのことば社、2006、p.100−102、原著は1999)
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