参加・体験しない人、できない人

 いまここで、「参加・体験」という概念を否定し、仮に「包摂」という言葉をおいてみよう。

 そのためには、伊藤寿朗のいう「関心の薄い人」や、君塚仁彦が伊藤の視界から外れていたのではと指摘する「さまざまな理由、背景で「自律した市民像」からはずれてしまった人」から考えることが必要だと考える。

 しかし、イギリスの文化政策をみても、無関心である人が一定数(1/4)いることは想定されても、その人たちを定義づけすることが困難であることが指摘されている。


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