第3講 「知能」を伸ばすには «まとめ»

前回の授業から

 前回の授業は、年をとることで知能が低下していくことは仕方がないけれど、どれくらい低下するのかはその人が置かれた環境の影響を受けているという話でした。知能は、どのような環境だと、どのように発達するのでしょうか。
 頭から直接手足が伸びた「頭足人」の話をしました。幼児期に、このような「頭足人」を描くのは日本だけではないようで、世界各国で同じような「頭足人」の絵が描かれるのだそうです。これがいつしか首と胴体がある絵(こちらは「胴体人」と勝手に命名しておきましょう)に変化していくのです。これはなぜだと思いますか?話のながれからは、まわりに絵がある環境だからだということになりそうですが・・・。

①発達における環境の力

 1980年代に、絵や文字がある環境のトルコ都市部と、絵や文字がほとんど無いトルコ農村部の大人と子どもの絵を比べました(以下、資料参照)。子どもたちの絵では、都市部も農村部でも「頭足人」がいます。都市部の大人は「胴体人」を描いています。問題は、農村部の大人の絵には「頭足人」がいるのです。このことから、絵がほとんどない環境下で育つと描画の能力は低い段階にとどまるといえそうです。
 絵本とかカレンダーとかを通じて、いつも胴体人の姿を見慣れていれば、胴体人を描くようになるというのは何となく想像できませんか。例えば、塗り絵は描かれたその姿をなぞるのですから、その作業を通じてあるべき「人の姿」が強化されそうです。西洋ならば遠近法や黄金比など、その国の文化が育んできた「絵」が刷り込まれていくように思います。1980年代にユネスコが編集した『わたしの村わたしの家:アジアの農村』という本があります。アジアのそれぞれの国の人が自分の村、自分の家の様子を描いたものですが、これを見ると、国によって様々な描き方があるのだと感心します。
 ところが、そのようにそれぞれの国の「文化」を身につける前の段階にある子どもたちには子どもたちならではの表現があるようです。その一つが頭足人なのです。彼女/彼らに頭足人の「お腹はどこにあるの?」と質問すると、頭や足の間を指差すのだそうです。ある国の文化を身につけてしまった私たちには奇異に見えるのですが、子どもたちにとっては、それが人の姿の表現なのです。他にも目・鼻・耳・口などとそれぞれのパーツを並べるように描く人の姿もあるそうです。
 朱に交われば赤くなるなんて言いますけど、赤くなる前の子どもたちはさまざまな色を帯びていそうです。その子それぞれの表現があるのでしょう。

②発達のための「ゆらぎ」

  それがいつしか胴体人へと発達していくわけですが、どのように発達するのかを見ていきましょう。資料では、兄と弟の事例が紹介されていました。兄は、胴体人を描いています。弟は頭足人を描いています。兄の描いた胴体人の絵を見ても、弟はしばらく頭足人を描き続けます。ふとしたことで、胴体人の絵を描いてみる。しかし、しばらくするとまた頭足人に戻ってしまう。胴体人だけを描くようになるまでの間は、こんなことを繰り返しているのだそうです。
 これは、発達が頭足人の段を上ったら、胴体人の段を上りというように一段一段階段を上るように起こるわけではない、ということを示しています。頭足人と胴体人の間でゆらゆら揺れて、行きつ戻りつする段階があることがわかります。絵に限らず、いろいろな考え方や見方のなかで、自分が納得がいくところを探っていくことが発達に必要なのです。
 これは人によるのでしょうが、私は何かを考えたり、読んだり、企画したりする時に、真反対の立場から考えることが多いです。この論、この意見、この内容に反対する人がいたとするならば、なぜ反対するのであろうかなど・・・。そのことによって、頭が整理されていくからです。ラジオやSNSや本や雑誌など、さまざまな人の意見に触れるように心がけてはいますが、やはり偏りが出てしまいます。自分一人でいくらさまざまな意見を想定したとしても、想定し得ないことはたくさんあります。特に、誰もが一般的に経験するようなことではなく、当事者性の強いことについては想定することに限界があります。だから他者が必要になります。特に、自分とは意見を異にする他者の存在ほど貴重なものはありません。だって、それだけ大きく「ゆらぐ」ことができますから。同じような意見、同じような考え方を持つ人同士では、なかなか「ゆらぐ」ことは難しいかもしれません。

③「ゆらぎ」のあとの「熟成」

 「Let's 揺らごうぜ」と授業でおっしゃってくださった学生さんがいました。子どもの絵の発達の話から入りましたけれど、大人にとっても異なる考え方のなかでゆらぐことが、発達にとって必要なプロセスなのだと、資料には書いてありました。でも、「揺らいだ」だけでは十分とは言えません。そのあとに自分との対話の時間が必要なのです。この授業だって何だっていいのですけど、「本当か?」「何となくそれっぽいけど、この場合は違うんじゃないか?」などと、自分の経験や知識から生まれた自分の考え方と照合していく作業が必要です。

二人で考えるといろいろな考えが出て選択肢や見方は増えるのですが、「こういうこともある」「あれも考えた方がいいということで終わってしまいがちです。いろいろ出たアイデアのうちで何がだいじなのかとか、さっきこういう意見が出たけれども、よく考えると大したことないのではないか」と思い直したりする作業ー内省の機会が、実はとても大事なことなのです。

鈴木忠「ゆらぎとしての発達と学習」『大東文化大学ファカルティ・デベロップメント委員会FD報告書2016年度』p6-26

 と、鈴木忠さんも書いておられますけど、会議あるあるじゃないですか?確かにいろんな意見を言われて、Aさんのいうことも納得だし、反対のBさんのいうこともわかる、みたいな場面。そこから、自分の意見とAさん・Bさんの意見はどこが違うのか、なぜその違いが生じたのか等をじっくり考えることで、自分ではぼんやりとしか考えていなかったことを明確にしていけるのではないでしょうか。

博物館でのゆらぎ

 人が生涯にわたって、「ゆらぎ」「熟成」をしながら学びや発達を進めていることがわかりました。博物館ではどのように「ゆらぎ」や「熟成」を実現していけるのでしょうか。
 この「ゆらぎ」と「熟成」の講義は、文化庁が主催していた研修の場で知りました。文化庁の「ぶんかる〜いきいきミュージアム〜エデュケーションの視点から〜」というWEB広報誌は、おそらく研修の修了生が執筆していることが多いのではないかと思います。たくさんある研修のプログラムで何を持って帰り、自分の博物館の取り組みに生かすかは人それぞれなので「ゆらぎ」や「熟成」ではない取り組みもあるかと思います。
 そのなかから、「ゆらぎ」というキーワードでヒットした1つだけ紹介しておきましょう。

https://www.bunka.go.jp/prmagazine/rensai/museum/museum_020.html


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?