第5講 博物館の利用者とは・・・ «まとめ»

前回の授業から

 「問い」では、博物館の利用者って誰だ?ということを考えてもらいました。単に「来館者」だけでなく、SNSのフォロワーとか、取材に来るメディアなんかも「利用者」なのでしょう。
 一方「資料探索」では、「利用しにくい人」「利用できない人」を探してもらいました。博物館が万人を対象とした施設だとするならば、
  万人ー利用者=利用できていない人
となり、利用できていない人が存在すると考えるからです。「万人」というのが理想論であることは百も承知です。しかし、社会教育施設というのであれば、つまり「教育」を行う施設であるとするならば「来たい人だけくればよい」という態度はおかしいと感じます。(文化施設ならば仕方がないのですが・・・)そこで、「利用しにくい人」「利用できていない人」から逆算して、どのような「教育」が可能なのかを考えていくことも必要だと考えます。そこで、利用しにくい人、利用できない人を調べていただいたのですが、いかがでしょうか。

①統計やアンケートの結果

 統計やアンケートの結果から利用しにくい人を探された方もありますね。
桜美林大学の金子ゼミの学生がまとめたWEBアンケートから見ていきましょう。首都圏在住の小・中学生の親に美術館に行かなくなった理由を尋ねたアンケートによれば、「行きたくても子ども連れでは鑑賞できない」55.5%「身近なところにない」51.8%「行きたくても時間がない」48.2%「行きたくても、子どもが楽しめない」40.9%「入場料金が高すぎる」37.2%ととなっています。(註1)
 それから、「博物館に興味のない人々」へのインタビューもしています。インタビューの量が少ない気もしますが、こんな答えが返ってきたようですよ。
 ・気軽に行ける場所にない
 ・回る順番が分からない
 ・知らないことを恥とする空気感がある
 ・静かにしなくてはならない
 ・その分野に興味のある人が行く
 ・学校で行くものだからわざわざ行かなくても…(註2)

(註1)(株)第一生命経済研究所「首都圏在住の小中学生の親に聞いた『美術館・博物館の利用に関するアンケート調査』
 https://www.dlri.co.jp/pdf/ld/01-14/news0611.pdf

(註2)桜美林大学リベラルアーツ学群2020年度金子ゼミ大学祭展示(Web展覧会)
 https://www2.obirin.ac.jp/a-kaneko/exhibition/?page_id=62

 他にも、利用しない理由を尋ねたアンケートや統計は存在するかと思います。しかし、実のところほとんど利用したことがない、利用したことがない人は、なぜ行かないかの理由すらもわからないと思います。あなたは、雀荘にいきますか?オペラはどうですか?地域の宗教行事は?なんでもいいのですが、利用したことがないところは誰しもあります。なぜいかないの?といわれても理由なんてないでしょう。上記の小中学生の親は、以前は利用していた人たちです。そうした人たちは利用したことがあるので、博物館・美術館の価値に対して理解があるんです。そこが自分にとってどんなメリットをもたらす場なのか、あるいは社会全体にどのような恩恵をもたらすのか。でも、利用したことがない、あるいはほとんど利用したことがない人は未知数なんです。(そのなかには、自分にとってはメリットを見出せないものの、社会全体に対する博物館の役割については理解を示す人もいるでしょう)

②「利用者」ではない人

 そこで、博物館に来ない人を問う前に、博物館自身がどうあったのかを考えた人がいました(註3)。つまり、博物館に来ない人がなぜこないのかを問うのではなく、博物館とは本当に万人を受けれようとしてきたのかを問うたと言うことです。
 明治時代には「一般公衆」という言葉で、対象が表現されます。つまり、女性、男性、大人、子供といった具体的な姿ではありません。博物館は「啓蒙」の場所なんです。これってすごいでしょう、古い考え方を捨てなさいと一方的に教える場所。一方的に伝えるので、相手が誰かということはあまり関心がないです。
 それが、戦後になり、生涯学習ということがいわれ始めると、学習者の存在が重要になります。そうですね、「学習は一人でも成り立つ」、最初の方の授業でやりました。つまり、教えることや教えるモノではなく、学習する人の存在が重要になってきます。このあたりから、来館者「主体」、利用者「主体」などと言われるようになってきました。博物館が何かを一方的に伝えるという教育観に加えて、来館者が主体的に博物館活動を行ったり、学びを深めるという学習観が現れます。
 2000年代に入り、潜在的利用者ということがいわれるようになりました。つまり、まだ利用していない人の存在が目に入るようになってきたわけです。これはミュージアム・マネジメント論というものが盛んになり、マーケティング、顧客満足度というような企業の経営手法を博物館に応用していくような考え方が生まれます。その結果、潜在的利用者も含めた人々が博物館に何を望んでいるのかを明らかにする、ということが意識され始めたといえるでしょう。

(註3)武井二葉「博物館における「来館者像」の変遷」『博物館学雑誌』47 (2), 2022 https://cir.nii.ac.jp/crid/1520292561213260800?lang=ja

 この潜在的利用者なのですが、どのようなアプローチが可能だと思いますか。つまり、利用したいけれどにくい人であれば、親子連れのイベントをするとか、車いすの人だけがゆったりと鑑賞できる時間をつくるとか、日中時間がとれない人には夜間開館などの手立てを取ることができますよね。このように、利用するのに「障害」がある人はその「障害」をいかに取り除けるのかが課題となります。2004-2006年度の「誰にでも優しい博物館づくり事業」をはじめとして、高齢者、外国人、障害者、乳幼児の保護者などを対象としたプログラムは増えてきました。近年では「社会的包摂」という言葉で取り組まれていることも多いかと思います。

非利用者との接触が博物館にもたらすもの

 利用したいけれど、利用に制限がかかっている人に対しては、その制限を取り払うような取り組みができるでしょう。しかし、博物館というものを利用することに価値を感じておらず、博物館を利用していない人についてはアプローチが難しいです。難しいですが、その人たちと出会っていく価値はあると思います。
 第4回の授業で、なぜ他者の文化に出会うことが重要なのか、話をしました。一つのこたえとして、自分にまとわりついた価値観やものの見方を、我が身から切り離してみれるようになる、「学び捨て」があるといいました。そのためには、私たちが自明視しているもの、こと、考え方と異なる他者の文化が必要になるという話でした。
 博物館関係者や博物館ファン、コアな利用者にとっては当たり前になってしまった様々な約束ごと、作品や資料の見方、博物館の考え方、つまり博物館文化が存在しています。それに対して、博物館文化に馴染んていない人、なんとなく敷居が高いなぁと思われている人もあるかも知れません。非利用者もその中に含まれるでしょう。そろそろカンの鋭い方は、私が何を言わんとしているかお気づきでしょう。博物館文化を捨てなくてはいけない、と言いたいのではないです。博物館文化を「学び捨て」なくてはいけないといいたいのです。つまり、キャプションが解説文であり、その解説文には書き手が存在し、その書き手が調べたり、研究した成果であるってことも、来館者のなかには知らない人もいるでしょう。キャプションをつけるのをやめましょうといいたいわけではなく、キャプションというものが博物館文化に特有のものであるという自覚が必要だと言いたいのです。
 その自覚から博物館・美術館は知らないと恥ずかしい、芸術・文化を理解していない人だと思われたくない。教養がないと思われたくないと思っている人たちに対して、敷居を下げる取り組みが行われるかも知れません。
 非利用者とのコンタクトは、博物館文化をより豊かにしていくために必要なのだと思います。

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