文化的なものとそうでないもの―石埼学「文化国家・憲法二五条・ハンセン病者」

「我妻によれば、憲法二五条の生存権の内容は、「単に生きてゆくという程度ではなく、文化国家の一員としての生活をする程度のものでなければならない」。憲法二五条の「文化的な」という文言は、保障されるべき生存権の水準としてではなく、むしろ生存権を享受する主体=「文化国の一員」を指定するものとして理解されている。そこでは、暗黙裡に、「文化国の一員」ならざる者を人権主体から排除する論理が見て取れる」

憲法二五条は、国民が「健康で文化的な最低限度の生活」を営む権利があるとしているけど、この「文化的」ってなんだろうね?って考えたのが中村美帆さんの『文化的に生きる権利‐文化政策研究からみた憲法第二十五条の可能性』。

そのなかで、石埼学さんの「文化国家・憲法二五条・ハンセン病者」(『亜細亜法学』第36巻第1号、2001)が紹介されていたので、入手しました。

「文化的な最低限度」というのは、映画も見て、本も読んで、なんなら博物館もいけるぐらいの水準の生活を「文化的な」といおうと解釈してきたのではなく、「文化的な人」の生活を守ろうという解釈が通説的地位を占めてきたのではないのかとのこと。

つまり、みんなを同じ水準で生活させるのか、それとも「文化国家の一員」の生活を守ろうとするものなのか。文化国家の一員ではない者とは誰なのか。いや、そもそも「文化」っていうやや上からな概念はなぜ生まれたのか、という話。


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