「参加・体験」に対する批判と自分を射抜くこと ー田中優子「一揆を通して社会運動を考える」

 関心の薄い人こそ対象に。

 どうやって?

 「参加・体験」という手法で。

 映画「MINAMATA」を見たのだけど、確かに「参加」だなぁと思った。
小熊英二さんは『私たちはいまどこにいるのか』で、ベビーブーマーが貧しさから豊かになる経験が後ろめたさとなり、「豊かさの陰で犠牲になっているものがあるはずだ、加害の自覚を持たねばいけないという感情をひきおこし、マイノリティの発見と、マイノリティを足場にしてマジョリティーを撃つ」パラダイムの形成にいたった、と説明する。

 しかし、田中優子さんは「後ろめたさ」ではなく「喪失体験」だったという。さらに、記憶にのこっていく社会運動には共通点があるという。

それは運動する組織や個人の複雑さと矛盾とを自ら観察し、語り続けた運動である。水俣の運動はその代表例であろう。たとえば「チッソは私であった」という緒方正人の認識は、水俣事件の原因は自らと、その属する社会のなかにもあるという、本質を突いた認識である。                                              

田中優子「一揆を通して社会運動を考える」田中優子+法政大学社会学部「社会を変えるための実践論」講座編『そろそろ「社会運動」の話をしよう―他人ゴトから自分ゴトへ。社会を変えるための実践論』

 同じようなことは伊藤寿朗も書いている。第三世代論は攻撃的だが、必ず自分にもその矢は向けられている、と。単にマジョリティを撃つ(第三世代を批判する)のではなく、撃つなかに自分も存在していることが必要なのだ。

 「参加・体験」だけでは限界がある!と気づくことができるのは、やはり「参加・体験」をある程度やってきた自分ではないだろうか。それは「参加・体験」をできている「うしろめたさ」だけでは説明できない。やっぱり自分のやってきたやり方を反省していく、自分に矢を向けないと説明ができないと思う。


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