第4講 博物館の文化とは・・・ «まとめ»

前回の授業から

 前回の授業では、「これは博物館で扱う文化としてふさわしい(ふさわしくない)」と決めているものがあるとすれば、それはなんだ?というお題がでました。例えばですが、私が小さい頃、壁には「喧嘩上等」「天上天下唯我独尊」といった落書きがありました。それは博物館で扱う「文化」なのでしょうか。あるいはバンクシーの作品はどうですか。扱うかどうかは、何によって決定しているのでしょうか。
 展示でもワークショップでもなんでもいいのですが、博物館で扱う「文化」とは一体どのようなものなのでしょうか。みなさん、調べてきてくださいましたか。

①文化の定義

 法律から調べられた方もいらっしゃいますか。それではみていきましょう。

「文化」とは、芸術及び国民娯楽、文化財保護法(昭和25年法律第214号)に規定する文化財、出版及び著作権その他の著作権法(昭和45年法律第48号)に規定する権利並びにこれらに関する国民の文化的生活向上のための活動をいう。

文部省設置法(昭二四・五・三一)

 しかし、省庁再編に伴い、文部省が文部科学省へ変更となった平成11年の文部科学省設置法のなかには、「文化」の定義は見当たりません。
 平成13年に文化芸術振興基本法が施行され、平成14年には、文化芸術の振興に関する基本的な方針が閣議決定されます。そのなかで説明されている「文化」とは、以下の通りです。

文化は、最も広くとらえると、人間の自然とのかかわりや風土の中で生まれ、育ち、 身に付けていく立ち居振る舞いや、衣食住をはじめとする暮らし、生活様式、価値観など、およそ人間と人間の生活にかかわる総体を意味する。一方、文化を「人間が理想を 実現していくための精神活動及びその成果」という視点でとらえると、文化の中核を成 す芸術、メディア芸術、伝統芸能、芸能、生活文化、国民娯楽、出版物、文化財などを示す文化芸術の意義については、次のように整理できる。

文化芸術の振興に関する基本的な方針(平成十九年二月九日閣議決定)

 また、「文化」という言葉ではないのですが、「文化芸術」という言葉については文化芸術基本法の第8条から第14条までに具体的に述べられています。芸術、メディア芸術、伝統芸能、芸能、生活文化、国民娯楽、出版物及びレコード等、文化財等、地域における文化芸術など、それぞれ事細かに例示されています。例えば、芸術は「文学、音楽、美術、写真、演劇、舞踊その他の芸術」などというように。でも、「文化芸術の振興に関する施策を講ずるに当たっては、基本法に例示されている文化芸術の分野のみならず、例示されていない分野についてもその対象とし、基本法における例示の有無により、その取扱いに差異を設けることなく取り組んでいく」(基本的な方針)と付け加えることも忘れません。

   こうして羅列してみると、文化に入るものはなんとなく理解できたように思います。でも文化に入らないものとは何なのか、依然として曖昧です。そもそも法律は、すべての状況に当てはまるように抽象的に作られるものなのだそうです。その曖昧な部分を裁判などを通じて、その解釈が行われていくものなんだそうです。
 しかし、法学が「文化」を規定していないというのには理由があるようです。

②文化は私的領域

  文化に限らず法学一般における姿勢として、「人間が生きていく上で、自分の人生に意味を与えてくれること、あるいは世界の意義を解き明かしてくれる。そういう価値観なり世界観なりは自分にとってはとても大事なこと」だが、そうしたものの考え方は、宗教を例に挙げて考えてみればよく分かるように、極めて多元的であって相互に両立し得ない。各自が「本当にこれこそ大事だ」と思うことを押しつけ合うと戦争になる。(中略)つまり、法学における「文化」は私的領域の問題解いうとらえ方は、個々人の人生に深くかかわる事柄として尊重すべきだからこそ、敢えて公的領域に持ち出して法が口を出すことを抑制するという考え方だった。

中村美帆『文化的に生きる権利ー文化政策研究からみた憲法第二十五条の可能性』春風社

 例えば、ナチス政権は退廃芸術展を開催しました。非ドイツ系、ユダヤ系の芸術家による作品を「退廃芸術」として展示し、国民の税金でこれらの「退廃芸術」を購入したことを非難しました。戦後、この反省から「この作品は文化に値するけれど、あの作品は違う」という価値判断を国が行うべきではないと考えている国があります。例えば、敗戦国であったドイツや日本。イギリスは「アームレングス」という考え方があって、芸術・文化に対して政治が介入しないよう、手(アーム)の長さ(レングス)分の距離感を持ちましょうとしているといいます。
 そんなわけで、法律の中に出てくる文化の定義は曖昧なのです。
 

③博物館のなかの「文化」と「他者」

 かつては文化とは優れた作品であり、その作品を評価する能力と教養と考えられていました。現在は、文化芸術の振興に関する基本的な方針に描かれているように、人間のいるところには必ず文化があり、文化間に優劣はないと考えられるようになってきました。つまり、文化の定義も時代によって変化してくるのです。
 それならば、博物館で扱う「文化」は、何でもありなのでしょうか。ここで「文化」と出会う意義を考えてみたいと思います。「文化」とは、優れた作品であるという場合には、情操が豊かになるとか、教養が深まるといった意義が見いだせるでしょう。でも、文化間に優劣がなく、人間がいるところには必ず文化があると考えた時には、「文化」に出会う意義とはどのようなことなのでしょうか。

ある時代のある文化に生まれ育つ者は、まずその文化の規範をみずからのうちに取り込むことで成長する。つまりわれわれはみな、人としての自我をもつ存在となった時点で、すでにその文化がもつ特定の常識や価値観の産物となっている。だから他者化の問題を意識するときには、かならず自分の常識や価値観の問い返しとなり、それが自分が学んできたことの「学び捨て」(unlearning)にならざるを得ないのである。

森本あんり「日本語版読者にむけて」トニ・モリスン『「他者」の起源ーノーベル賞作家のハーバード連続講演録』

 「学び捨て」、これが答えの一つだと思います。
 国籍、地域、ジェンダー、性的嗜好、信仰、宗教、その他もろもろの違いを持った文化のなかで人は生まれ育ちます。結婚したり、誰かと一緒に暮らしたりすると、その違いに気づくことがありますよね。味噌の種類とか、朝のルーティンとか、当たり前にしていたことが、他の人とは違ったなんてことありますよね。その時はじめて、自分が持っている「文化」が当たり前ではないことに気づかされます。
 みそ汁だとかお節料理だったら、国内でも異なる文化があることは理解されているので、そこまで他者を意識しなくてすむかと思います。では、所属する職場や業界はどうですか。「企業文化」なんて言葉があるように、その世界にはその世界の常識、ルール、当たり前が存在していると思います。ISO9001というものを大事にしている世界もあります。なぜ大事にしているのかにも理由があるはずです。そしてもちろん、博物館にも常識、ルール、当たり前になっていることがあるでしょう。
 他の人の文化を学ぶということは、当たり前になってしまった自分の文化をわが身から切り離して見れるようにするということなのです。

博物館と文化についての私案

 最後に、博物館での「文化」について、私が考えていることを紹介して終わりにしたいと思います。「文化」にはど真ん中と周辺があると考えています。マンガであれ、歌舞伎であれ、園芸であれ、どんな文化であれ、「文化」が真ん中にあって、その周辺にその文化の価値を理解している人たちがいます。ファン層ですね。さらに、その外側に、歌舞伎なんて関係ないわと思っている人たちがいます。「文化」が生活のなかに根づいている時代には、関係ないわっと思っている人たちも歌舞伎も一定の理解ができる状態です。博物館がなくても、芝居の内容や役者は理解できます。しかし、これが時代を経て同時代のものでなくなった時にはどうでしょう。引き続き、ファン層は一定存在すると思いますし、その人たちは文化を理解できるでしょう。だけれども「関係ないわ」の層には理解できない。博物館で浮世絵を見て、図書館で内容を知り、ようやく「文化」との接点をつくっていくことができる。
 学校の歴史資料が顕著だと思うのですが、母校の古い写真、昔の先生たちの授業の様子、そうした資料が大切だ、保存したいと思う人の多くはファン層、あるいは同窓生がいらっしゃる。一方で、その学外の人からしたら「関係ないわ」でしょう。いずれ閉校になってそのコミュニティがなくなった時には、ファン層は徐々に少なくなっていくでしょう。限界集落なども同じ問題を抱えているかもしれません。
 私は、ファン層が大切にしている「文化」を外にひらくのが博物館ではないかと考えています。「関係ないわ」層に、興味をもってもらう、知ってもらう、考えてもらう。さまざまな文化の営みから、他者を知り、そのことで自分について考えていく場所が博物館だと考えています。

博物館における文化についての私案

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